硝煙[2]
「こっ……これは、いかん……」
黒田勢先鋒を預かる後藤又兵衛は、馬上で思わず呻いた。
胸の奥に走ったのは、戦巧者としての直感──これ以上踏みとどまれば、戻れなくなるという確信だった。
又兵衛は即座に残存部隊へ後退を命じると、自らは馬腹を蹴り、主将である黒田長政のもとへと駆けた。
長政もまた、先ほど戦場を震わせた異様な轟音を耳にし、立ちのぼる夥しい硝煙を目にしていた。だが、最前線で何が起きたのか、その正体までは掴めていない。
そこへ、血相を変えた又兵衛が駆け込んできた。
「殿っ! 殿っ! 陣を引かれよ! このままでは皆殺しにされるぞ!!」
あまりに切迫した声に、長政は一瞬たじろいだ。
だが次の瞬間、反射的に怒鳴り返してしまう。
「血迷うたか、又兵衛! 戦は始まったばかりではないか!」
──この主従は、元より折り合いが悪い。
黒田如水にとって、長政は不肖の息子であった。無論、凡将ではない。しかし、才覚一つで身を起こし、家運を切り拓いてきた如水の眼には、あらゆる面で物足りなく映った。
一方で、如水がその才を誰よりも愛した家臣こそ、後藤又兵衛である。
如水は又兵衛の中に己の後継を見出し、持てる軍略のすべてを叩き込んだ。まるで仏師が鑿を振るい、不要な部分を削ぎ落とすように、後藤又兵衛という武将を彫り上げたのだ。
如水の衣鉢を継ぐ存在──そう自他ともに認める又兵衛は、自然と長政を軽んじるようになった。
そして長政もまた鈍感な男ではない。ことあるごとに感じる軽侮に、屈辱を噛み殺し続けてきた。
それでも、黒田家を支える柱石と決定的な亀裂を生むほどの愚は犯さなかった。
そんな歪んだ均衡が、十年以上も続いていたのである。
又兵衛にとって長政は「如水様には似ても似つかぬ愚者」。
長政にとって又兵衛は「主を主とも思わぬ無礼者」。
「今の我らでは太刀打ちできぬ! 陣を下げねば、御家が潰れるわっ!」
又兵衛の声には、取り繕いも遠慮もなかった。
ここまで狼狽する姿を、長政はこれまで一度も見たことがない。
嫌な男ではある。だが、軍事に関しては全面的に信頼できる──その又兵衛が、ここまで必死なのだ。
最前線で尋常ならざる事態が起きていることは、疑いようがない。
冷静に考えれば、最善策は明白だった。
又兵衛の言う通り、今すぐこの戦場から撤退するべきだ。
だが、その瞬間、長政の脳裏に政治家としての計算が頭をもたげる。
地道な努力を重ね、尾張衆と徳川家を繋ぎ、家康の信頼を勝ち取ってきた。
その結果として与えられた、先陣衆の一軍という栄誉。
それを、開戦と同時に投げ捨てたとなれば──家康の心証は、いかほど損なわれるだろうか。
そして、もう一つ。
やはり、又兵衛の進言には素直に従いたくないという感情が、胸の奥で燻っていた。
「狼狽えるな! 急ぎ使者を立て、内府様のご沙汰を仰ぐ。それまでは持ち堪えよ!」
撤退するにしても、家康の了解だけは得たい。
それが、長政の下した決断だった。
──しかし。
その言葉を聞いた瞬間、又兵衛の中で何かが切れた。
「きっ、吉兵衛ぇぇー!! おどれは阿呆かっ!!」
黒田家が滅亡の瀬戸際に立たされているというのに、なお家康の顔色を窺おうとする長政。
その姿に、又兵衛は心底、愛想が尽きた。
長政は、その暴言に顔色を失った。
生まれてこの方、ここまで露骨に罵倒されたことなどない。しかも相手は、最も忌み嫌ってきた又兵衛である。
唇が怒りで小刻みに震えだす。
「こっ……殺せ! 彼奴を……彼奴の首を、今すぐ刎ねよ!」
積年の屈辱と怨嗟が、一気に噴き出した。
この恥辱を晴らすには、もはや又兵衛を殺すしかない──そう思い詰めた。
だが、その命令が実行されることはなかった。
すでに又兵衛は、その場を去っていた。
主の命令を待つことなく、独断で前線へと馬を走らせ、将兵を一人でも多く逃がそうとしていたのだ。
取り残された長政と幕僚たちは、呆然と立ち尽くすほかなかった。
──だが、その静止も束の間である。
又兵衛と長政が言い争っている間に、龍仙寺衆は二度目の攻撃を放ち、黒田勢の先鋒を完全に粉砕した。
そこへ石田勢の本隊が雪崩れ込む。
秩序は一瞬で崩れた。
黒田勢は周囲の味方を巻き込みながら算を乱し、我先にと逃げ出す。
その敗走の波は、瞬く間に長政の本陣を呑み込み──黒田勢は、完全な総崩れとなった。
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