硝煙[1]
藤四郎は、ひと抱えもある太枝に「長竿」を食い込ませるように固定し、そのまま身じろぎ一つせずターゲットスコープを覗き続けていた。樹皮越しに伝わる木の冷たさが、じわりと腕に染みている。
夜明けとともに立ちこめていた霧はすでに薄れ、高台に構えられた小早川本陣を覆い隠すほどの濃さは残っていない。視界は開け、距離と風の具合も、今は悪くない。
スコープの向こう、陣内では数人の武者が忙しなく行き交っていた。伝令か、供回りか。誰かが走り、誰かが立ち止まり、また消えていく。
だが藤四郎の引き金に掛けた指は、微動だにしなかった。
──まだだ。
十字線の中に、標的は入っていない。
さすがにこの距離では顔の造作までは見分けがつかない。それでも、秀秋の華美な鎧装束だけは、嫌というほど目に焼き付いている。あの派手さは、戦場ではむしろ異物だ。周囲の地味な具足の中で、ひとりだけ浮き上がるように映る。
藤四郎は枝の上で息を殺し、視線を一点に据え続けた。時間の感覚はとうに薄れ、世界はスコープの円と、その外縁に揺れる景色だけに収束していく。
やがて、眼下の関ヶ原に充満していた軍勢が、うねるように動き出した。
陣太鼓が鳴り、法螺貝の音が応える。低く、重く、腹の底に響く音が、東西双方の陣営から押し寄せてきた。
その喧騒に誘われたのだろう。
南蛮渡来の猩々緋羅紗に違い鎌を染め抜いた陣羽織をまとい、三鍬形後立小星兜を戴いた、ひときわ派手な武者が、数名の供回りを従えて幔幕の外へと姿を現した。
──来た。
藤四郎は、静かに、深く息を吸い込んだ。胸いっぱいに空気を満たし、それを糸のように細く、長く吐き出していく。
呼吸とともに、心のざわめきも削ぎ落とされていく。残るのは、重さと、距離と、風だけだ。
引き金に掛けた指が、わずかに締まっていく。
派手な姿の武者は、逆茂木に沿うように歩みを進め、周囲を油断なく見渡していた。警戒している──だが、その警戒は地上に向けられている。
やがて足を止め、何気ない仕草で顔を松尾山の方へ向けた。
その一瞬。
それこそが、藤四郎が待ち続けていた刹那だった。
まるで霜が舞い降りるかのような静けさで引き金が絞られ、乾いた銃声が、空気を裂いた。
一瞬だけ「長竿」の銃身が小さく跳ね上がり、筒先から白い硝煙が立ち昇る。
すぐさまスコープに目を戻す。
十字線の向こうで、派手な姿の武者が大きくのけぞり、鮮血を噴き上げながら崩れるように地面へ倒れ伏した。供回りの動きが、遅れて乱れる。
──終わった。
藤四郎は感情を浮かべることなく、自分の仕事が完遂されたことだけを確認すると、そっとボルトを引いた。
排出された薬莢を革袋に収め、ポケットに入れる。金属音は最小限、動きは淀みなく。
次の瞬間には、すでに撤収の手順に入っている。
枝の上に残るのは、微かな硝煙の匂いと、何事もなかったかのような静けさだけだった。
*
黒田勢は、波が岸へ寄せるように、じわじわと距離を詰めていた。
前面には竹束、その後ろには分厚い木盾。銃弾を弾き、砕け、受け止めるための即席の城壁が、隊伍とともに前進してくる。
火縄銃は、一発撃てば終わりではない。
引き金を引いた後に待つのは、銃身の掃除、火薬の補充、弾の装填という長い手順だ。通常で三十から四十秒、どれほど鍛えた兵でも二十秒を切ることは稀である。
ゆえに防御側の鉄砲運用は、初撃の一斉射にこそ意味がある。そこを過ぎれば、再装填を終えた者から順に撃つしかなく、火力は途端に散り、鋭さを失う。
攻撃側はそれを知っている。
最も恐ろしい初弾を竹束と木盾で受け止め、その間に距離を詰める。前進と防御を同時に行い、銃が沈黙する時間帯に一気に逆茂木へ取りつき、陣を割る──それが定石だった。
石田陣の逆茂木まで、もはや二百メートルを切っている。
いつ、一斉射撃が始まってもおかしくない間合いだ。
だが。
逆茂木の向こうに、鉄砲隊の姿はなかった。
代わりに、奇妙な一団が横一列に並び、棒状の何かを手にしている。
黒田勢は、それが鉄砲だとは思わなかった。
鉄砲であるなら、必ず火縄が白い煙を上げるはずだ。不気味ではある。しかし、如水に鍛え抜かれ、「精強」の名をほしいままにしてきた黒田の将兵は、足を止めなかった。
未知への警戒はある。それでも、歩は前へ進む。
龍仙寺衆は、逆茂木の前まで歩を進めると、その場で石像のように立ち並んだ。
伍ごとに横一列、肩の高さも呼吸の間合いも揃え、誰一人として咳一つしない。風に揺れるのは、蓮の花に六ツ星が染め抜かれた龍仙寺衆の幟旗だけ。
この隊を預かる主将、山田左門は、その列の背後に立ち、敵との距離を測っていた。
一歩、また一歩と詰まってくる敵影を視界に収めながら、胸の奥に溜まった空気を大きく吸い込む。
「筒ぅーー構えぇーー!」
張り裂けるような号令が戦場を切り裂いた。
その瞬間、二百八の筒先が、一斉に黒田勢へ向けられる。
「五連っ! 放てぇーー!」
声が終わるのと同時に、世界が壊れた。
轟音。
これまでの戦場で聞いたことのない、連続する雷鳴のような音が、地面と空気を震わせた。
五連──それは龍仙寺衆だけが使う言葉。
リボルバーに装填された六発をすべて撃ち切って一連。それを五度、休みなく繰り返すという意味である。
わずか二分足らずの間に、六千二百四十発。
凄まじい数の弾丸が吐き出され、両軍の間には、壁のような硝煙が立ちこめた。視界は奪われ、音だけが残る。
やがて、銃声が途切れた。
数秒後、白煙がゆっくりと流れ去り、その向こうに現れた光景に、龍仙寺衆と石田の将兵は言葉を失った。
先ほどまで整然と隊伍を組み、確かな足取りで迫っていた黒田の先鋒は、その場で折り重なるように倒れ伏していた。
立っている者は、一人もいない。
人と馬が絡み合い、動かぬ肉塊と化している。命を取り留めた者もいるが、上がるのは苦悶のうめき声だけで、身を起こすことすらできない。
そこにあったのは、もはや戦闘ではなかった。
一方が為す術もなく蹂躙された、紛れもない虐殺の光景。
石田陣の将兵は、眼前で起きた出来事を理解できず、しばし呆然と立ち尽くしていた。
だが、やがて誰かが声を上げる。
それは波紋のように広がり、次第に大きな歓声となり、ついには地鳴りのような鬨へと変わった。
陣内は沸き返り、勝利の予感が、熱を帯びて空気を満たしていった。
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