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Last resort  作者: 蒼了一


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十五日[3]

 戦場は明るさを増しつつあった。


 だがその光は、霧という厚い帳に絡め取られ、地表へはほとんど届かない。白く濁った空気が関ヶ原一帯を覆い尽くし、百歩先の景色すら溶かしてしまう。夜明けと同時に動き出すはずだった両軍は、互いの気配を感じながらも、踏み出すことすらできずにいた。


「……なんじゃ、あの備は?」


 後藤又兵衛基次ごとうまたべえもとつぐが、馬上から低く呟いた。


 戦場の空気を読む嗅覚にかけては比類なき男。無類の戦上手として名を馳せ、この戦では黒田家の先鋒を一任されている。


 黒田勢は先陣衆第一軍の最前面に布陣し、石田家の正面と真っ向から相対していた。又兵衛は濃霧を押し分けるように進み、ほとんど敵陣の鼻先まで偵察に出ていたのである。


「はて……黒鍬者(くろくろわもの)ではございませぬか?」


 随伴する寄騎が目を細め、慎重に答えた。


 黒鍬者とは土木や補給を担う者たちで、本来は戦闘の前面に立つ存在ではない。


「いや……肩に掛けとるのは、鋤鍬(すきくわ)ではあるまい」


 又兵衛の視線は、霧の奥にぼんやりと浮かぶ影を捉えていた。


「あれは……一体、何者じゃ」


 彼が見ていたのは、龍仙寺衆である。


 山田左門が率いる龍仙寺衆別働隊は、この時、石田陣の最前列に並んでいた。異様な沈黙を纏い、ただ静かに霧の中に立つその姿は、戦場に似つかわしくないほど無言だった。


 無論、拓真は彼らがここにいることを知らない。


 二日前、拓真は龍仙寺衆を大谷吉継に預けるよう依頼していた。だが、その言葉は左近によって黙殺された。


 この戦に勝利したとしても、すべてが終わるわけではない。


 明智光秀を討った後、秀吉がさらなる争いに身を投じたように、三成もまた戦後の主導権争いを勝ち抜かねばならない。


 そのためには、理では足りぬ。


 誰も逆らえぬだけの「力」が要る。


 龍仙寺衆は、そのための切り札だった。


 この力を背景にすれば、三成が豊臣政権の主導権を握ることも決して夢ではない。


 だが──力を力として認識させるには、実績がいる。


 大量の血が流れなければ、龍仙寺衆の名は世に轟かない。


 そして、生贄は目の前にいる。


 龍仙寺衆を大谷吉継に預け、小早川秀秋の寝返りを待つなどという選択肢は、左近の中には最初から存在しなかった。


 拓真が望んだのは、可能な限り血を流さぬ勝利だった。


 だが、左近は大量の流血をともなう実績を欲していた。


 ──無論、秀秋の寝返りを見過ごすつもりなど、さらさらない。


 手は、すでに打った。


 現在、小早川勢は東山道を塞ぐように布陣し、本陣を松尾山北端の丘に構えている。


 標高は三十メートルほどに過ぎないが、頂からは関ヶ原全域が見渡せる。戦場を見下ろすには、十分すぎる位置だった。


 左近が用意した一手は、その小早川本陣の南──直線でおよそ三百七十メートル先にあった。


 山裾に広がる深い森。その中で、小早川本陣の真南に位置する一本の杉が、ひときわ高く天を突いている。


 その杉の梢に、夜明け前から「長竿」を携えた鈴木藤四郎がいた。


 霧に紛れ、音もなく登りきり、枝葉の隙間から小早川本陣を見下ろしている。


 裏切り者を生かしておく理由などない。


 未来を知ったその瞬間、左近は迷うことなく秀秋の暗殺を決めた。


 当時の軍制は、近代のそれとは異なる。


 主君と家臣との間に結ばれた、禄を媒介とした契約によって成り立っている。主君が討たれた瞬間、その契約は霧散し、軍は瓦解する。


 小早川勢を戦場から消す最良の手段──それが、これだった。


 藤四郎は、かつて小早川家に仕えていた。


 戦国最強と謳われた雑賀衆の中でも、十指に入る名人と称された父の背中を見て育った。父は反織田同盟の加勢として毛利に派遣され、先代、小早川隆景のもとで戦い、その人柄に惚れ込み、戦後も雑賀へは戻らなかった。


 藤四郎は十六で家督を継ぎ、その腕前はすでに父を凌ぐと噂された。朝鮮出兵でも武名を上げたが、秀秋が家督を継ぐとほどなくして小早川家を去っている。


 寡黙な男で、自らを語ることはない。


 だから、小早川家を去った真の理由を知る者はいなかった。


 だが──。


 秀秋狙撃の命を受けた瞬間、藤四郎の生真面目な顔に、ほんの一瞬だけ浮かんだ喜色を、左近は見逃さなかった。


 その刹那、左近は確信した。


 この狙撃は、必ず成る、と。


 *


 午前二時過ぎ、家康は赤坂を発ち、西へと馬を進めた。


 闇の底から降り注ぐ雨が容赦なく甲冑を打ち、袖や裾を重く濡らしていく。だが、その冷たさはほとんど意識に上らなかった。胸の奥で燃え上がる高揚が、雨も闇も押し流していたからだ。


 一歩、西へ。


 それはすなわち、天下へと近づく一歩である。


 その思いが強すぎるがゆえ、家康は油断すれば緩みそうになる口元を、奥歯を噛みしめて必死に引き締めた。長き忍従の末にようやく掴みかけたこの瞬間を、感情に溺れて台無しにするわけにはいかない。


 目指す桃配山は、南宮山の北西端に位置する小さな峰で、標高は二十メートルほどに過ぎない。しかし、このあたりから西は視界を遮るもののない平地が広がっており、戦場全体を見渡すには十分な場所だった。


 午前六時前。


 桃配山の本陣に到着した家康は、すぐに本多忠勝を前に呼び、戦況の報告を受ける。


「……敵方は、斯様な陣立てにございます」


 忠勝の言葉を聞きながら、家康は静かにうなずき、やがてぽつりと呟いた。


「治部の陣は……天満山か」


 視線は自然と、眼前に広げられた地図へ落ちる。幾度となく眺めてきたはずの地形が、この日ばかりはまるで違って見えた。ここでの一手一手が、天下の帰趨を決める。


「仇敵を前にして、尾張の衆もさぞ猛っておろうな」


 その声には、期待とも試すような響きが混じっていた。


「はっ。恨みは骨髄に徹しております。骨身を砕いて働くことでございましょう」


「それはなかなかの見物じゃが……」


 家康はふと顔を上げ、外を覆う白い帳に目をやった。


「この霧は、どれほどで晴れる?」


「村の者の話では、辰ノ正刻(午前八時頃)を過ぎるまでは、靄が残るとのことにございます」


「では……まだ一刻ほど先か」


 家康はそう言って床几から立ち上がった。


 足元の土は雨に濡れ、ぬかるんでいる。だが、その不安定さがかえって、これから踏み出す現実の重みを教えてくれるようだった。


 家康は軍配を手に取り、霧の向こう──西の原へと向ける。


「あの原に向けて、馬印を立てよ!」


 号令とともに掲げられたのは、金の七本骨扇に日の丸を配した徳川の馬印。七尺三寸(二百二十一センチ)の扇は、二十尺(六メートル)もの長竿の先に取り付けられ、霧の中でもなお威容を放っていた。


 やがて霧が晴れれば、関ヶ原のどこにあろうとも、人々は知るだろう。


 ──この戦場に、徳川家康が立っているということを。


 その事実こそが、すでに一つの圧力であり、宣告であった。

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― 新着の感想 ―
→裏切り者を生かしておく理由などない。 これは私も思いました。仮に最初から東軍でなかったとしても最終的に西軍の敵となった事実は変わらないので、生かしておけば裏切る前に勝ったとしても戦後に不穏分子にな…
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