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Last resort  作者: 蒼了一


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十五日[1]

 関ヶ原は、東を南宮山、西を天満山、南を松尾山、北を伊吹山系に囲まれた盆地である。四方を低山に閉ざされ、その中央を貫くように街道が交差している。真上から俯瞰すれば、平地に刻まれた道ははっきりと✕字を描き、まるでこの地が人と軍を呼び寄せるために用意された舞台であるかのように見える。


 北東から南西へ通るのが東山道、交差点から南東へ延びるのが伊勢街道、反対側は北国街道脇往還で、いずれも当時の主要街道であった。物資、情報、そして軍勢が必ず通過する結節点──兵書ではこのような地形を衢地(くち)と呼び、古来より大軍同士の衝突が起こりやすい場所とされてきた。関ヶ原は、その条件を余すところなく満たしていた。


 慶長五年九月十五日早朝、関ヶ原とその周辺には西軍、東軍あわせて十六万以上の大軍が集結した。夜明け前の冷えた空気の中、霧に包まれた盆地に、無数の兵の気配が沈殿していく。鎧の金具がわずかに触れ合う音、馬の鼻息、地を踏みしめる足音──それらが重なり合い、やがて一つの巨大な緊張となって関ヶ原を覆っていた。


【西軍】

 大垣城出撃軍    三三二〇〇(主将は宇喜多秀家)

  内/宇喜多秀家  一八〇〇〇

  内/石田三成    六七〇〇

  内/小西行長    六九〇〇

  内/島津義弘    一〇〇〇

    他        六〇〇

 山中駐屯軍      七四〇〇(主将は大谷吉継)

  内/大谷吉継    一二〇〇

  内/小川祐忠    二五〇〇

  内/脇坂安治    一二〇〇

  内/伊藤盛正    一〇〇〇

    他       一五〇〇

 松尾山駐屯軍     八〇〇〇(主将は小早川秀秋)

  内/小早川秀秋   八〇〇〇

 南宮山駐屯軍    一四九〇〇(主将は毛利秀元)

  内/毛利秀元   一〇〇〇〇

  内/長宗我部盛親  二一〇〇

  内/安国寺恵瓊   一八〇〇

  内/長束正家    一〇〇〇

 大垣城守備軍     六六〇〇

 総計        七〇一〇〇


【東軍】

 徳川家康本軍    三〇五〇〇

 先陣衆第一軍    二一六〇〇(主将は福島正則)

  内/福島正則    六五〇〇

  内/田中吉政    四〇〇〇

  内/長岡忠興    二〇〇〇

  内/加藤嘉明    一六〇〇

  内/京極高知    一五〇〇

  内/藤堂高虎    一五〇〇

  内/黒田長政    一三〇〇

  内/生駒一正    一〇〇〇

  内/筒井定次    一〇〇〇

    他       一二〇〇

 先陣衆第二軍    二一三〇〇(主将は池田輝政)

  内/池田輝政    六五〇〇

  内/浅野幸長    五〇〇〇

  内/堀尾忠氏    四〇〇〇

  内/山内一豊    二六〇〇

  内/有馬豊氏    二二〇〇

  内/一柳直盛    一〇〇〇

 先陣衆予備軍     七一〇〇(少数勢力を集合して構成)

 大垣城包囲軍    一三六〇〇(徳川勢一千五百を含む)

 総計        九四一〇〇


 関ヶ原の戦いには、今日に至るまで繰り返し引用される有名な布陣図が存在する。明治二十六年(一八九三年)、陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 関原役』に収載された「関原本戦之図」である。現在でも関ヶ原を解説する記事や書籍の多くが、この図を下敷きにした布陣図を掲載している。


 この図によれば、西軍は伊吹山系の笹尾山から松尾山にかけて五万七千の兵で鶴翼陣を布き、南宮山の北から関ヶ原中心部にかけて展開する八万九千の東軍と対峙している。さらに東軍の背後には二万八千の西軍が控え、兵力差は八万五千対八万九千と拮抗しているものの、陣形的には東軍が包囲され、劣勢に立たされているように描かれている。


 しかし、この布陣図は江戸期の軍記物や後世の布陣図を基に作成されたものであり、想像や脚色が加えられた部分も多い。実際の配置や兵数を復元する一次史料としては、信憑性に乏しい点が多いことが、現在では明らかになっている。


 たとえば、石田三成が笹尾山に本陣を置いたとする説は、一次史料によって完全に否定されている。また、開戦時に小早川秀秋が松尾山山頂に布陣していたという説も、現地の地形を考慮すれば現実的ではない。実際に松尾山城跡に立てば理解できるが、あの山から、鎧を着た騎馬武者や足軽の大軍勢が一斉に駆け下り、西軍を襲撃するなど不可能に近い。


 むしろ夜の段階で小早川勢は山を下り、大谷勢を背後から押し出し、東山道を遮断する位置に布陣していたと考える方が自然である。


 つまり西軍が鶴翼の陣を完成させる前に東軍が出現したため、主力は天満山に釘付けにされた。そして開戦と同時に小早川秀秋が大谷吉継を急襲し、その寝返りが戦場に動揺を走らせる。天満山の諸隊が浮き足立った隙を突き、東軍は一気呵成に攻め立てた。その結果、西軍は抗しきれず、わずか数時間で総崩れとなった。


 関ヶ原の戦いについては古来より多様な説が提唱されてきたが、現在の研究では、この見解が主流となりつつある。


 午前四時頃、大垣城出撃軍は天満山に陣を布いた。南側の山中には松尾山駐屯軍が陣取り、その圧力に押し出されるような形で山中駐屯軍が関ヶ原南部へ配置されている。


 一方、午前一時頃に出陣を開始した東軍は、徳川家康本軍が関ヶ原東部、先陣衆第一軍が関ヶ原中央部、先陣衆第二軍が南宮山北部へと進出し、午前六時頃には布陣を完了させた。


 この時点で、大垣城周辺を除いた両軍の兵力は、西軍が六万三千五百、東軍が八万五百(先陣衆予備軍は第一、第二軍に組み込まれている)となる。


 だが、吉川広家が徳川家康と不戦の密約を交わしていたため、南宮山駐屯軍は戦闘に参加しない。さらに松尾山駐屯軍はすでに東軍へ寝返っている。これにより、実質的な兵力は西軍が四万六百、東軍が八万八千五百と、倍以上の差が生じていた。


 関ヶ原の戦いは、陣形の劣勢と西軍の奮戦によって家康が苦戦を強いられ、そこから神がかった采配で小早川秀秋の寝返りを誘い、奇跡的な勝利を収めた──そのように語られることが多い。しかし、それは数百年にわたって形成されたフィクションである。


 優れた戦略家は、一か八かの勝負などしない。勝利のためにあらゆる手段を尽くし、合戦が始まる前に圧倒的優位を築き上げる。この時も家康は、状況が整うまで慎重に事態を運び、南宮山駐屯軍の戦線離脱によって勝敗が確定した瞬間に、全軍出撃を命じたのである。

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