鶴翼乃陣[3]
大垣城を発ってから、すでに四時間余りが過ぎていた。
夜気は肌にまとわりつくほど重く、雨に濡れた地面からは土と草の匂いが立ち上っている。軍勢は疲労を押し殺しながら進み、関ヶ原へと差しかかったところで、不意に前方の闇がざわめいた。
そこにいたのは、大谷吉継が率いる一隊だった。
思わぬ遭遇に三成は即座に全軍へ小休止を命じ、自らは馬を降りて吉継の本陣へと向かう。胸の内には、説明のつかぬ違和感が小さく芽生えていた。
「刑部殿、随分と東に陣を移されましたな」
挨拶もそこそこに、三成は切り出した。
本来であれば、吉継は山中に布陣しているはずだった。それがいつの間にか、関ヶ原の南部まで進出している。想定外の展開に、三成の声にはわずかな硬さが滲む。
「実は……」
吉継は落ち着いた声音で答えた。
「日暮れ近くに金吾様が参られて、今宵、松尾山から山中へ降り、後備えに入ると申されました。それ故、我らも陣を前へ移した次第。なにも大事が出来したわけではござらぬ」
その言葉を聞き、三成はようやく胸の奥の詰まりが解けるのを感じた。
「では……金吾様も、いよいよお腰を上げられたのじゃな」
旗幟を鮮明にしなかった小早川秀秋が、ついに戦線参加の意思を示した。
それは、三成にとって疑いようもない吉報だった。
「ええ。随分と昂ぶられておりましてな」
吉継は微かに苦笑を浮かべる。
「『東山道はお任せあれ。敵は一人も通しませぬ!』などと、実に勇ましく申されておりました」
その言葉に、三成の顔がぱっと明るくなる。
もちろん、その“敵”が自分たちを指している可能性など、二人とも夢にも思っていない。
「おお、それは頼もしい。ならば、我らの勝利はもはや疑い無しじゃ」
三成は思わず声を弾ませ、柄にもなく大言を口にした。
「そうと決まれば、一刻も早く金吾様と策を練らねばなるまい」
しかし、対照的に吉継の表情は硬いままだった。その視線は地に落ち、どこか重苦しい。
「その策でござるが……治部殿」
低く、しかしはっきりとした声。
「中入は、お止めなされよ」
三成の顔から、先ほどまでの緩みがすっと消えた。
「……刑部殿は、中入に反対か?」
「反対にござる」
吉継は即答した。
「青野原はすでに敵の掌中。そこへ我らが押し出すは、火中の栗を拾いに行くようなもの。あの広野にうかうか踏み込めば、四方から囲まれ、袋叩きに遭いましょう」
苦肉の策とはいえ、必死に絞り出した案を正面から否定され、三成は思わずこめかみを押さえた。
自分よりも遥かに軍才に優れた男——吉継の言葉は、何よりも重い。
「……では」
三成は顔を上げ、静かに言った。
「刑部殿の策を、お聞かせ願おう」
吉継は無言で小姓に命じる。
ほどなく、半畳ほどの大きさの紙が広げられた。関ヶ原一帯を描いた地図である。心得ていたのか、小姓たちは手際よく軍勢に見立てた駒を配置していく。
「治部殿は天満山へ向かわれると申されたな」
目の見えぬ吉継の代わりに、小姓が指先で地図をなぞる。
「そこから北の笹尾山まで陣を広げ、北国街道を塞ぐのです。山中には金吾様、関ヶ原にはそれがしが陣取っております。これで……」
「鶴翼乃陣を敷く、というわけじゃな」
三成が静かに言葉を継いだ。
「左様にござる」
吉継は頷く。
「内府様がここへ至るのは、早くとも明日の夕刻。それまでに逆茂木を巡らし、陣を固めれば——数は劣れど、五分に渡り合えまする」
「では……南宮山の中国勢は、いかがいたす」
「時を稼いでいただきます」
吉継の指が、地図の背後を示す。
「頃合いを見て、大垣城へ入るよう、今すぐ使者を立てるのです。これならば、総崩れにはなりますまい」
「ううむ……」
三成は唸り、地図を睨みつけた。
鶴が翼を大きく広げた形を模した鶴翼乃陣。野戦においては必勝と謳われる陣形である。右翼、中央、左翼、そのいずれに敵が攻め寄せようとも、三方から包囲することができる。
吉継の言う通りだ。
この形なら、たとえ兵数が劣っていても、互角に戦える。
黙考する三成の前で、吉継は静かに指を三本、突き出した。
「三日」
その声には、決意が宿っていた。
「三日、持ちこたえるのです。さすれば、大津の勢も、北国の勢も必ず参ります」
近江方面には、数万の味方が点在している。
彼らが関ヶ原で合流すれば、数的不利は解消される。時間は、西軍の味方だった。
だからこそ、あらゆる手段で時を稼ぐ。
それが、吉継の描いた戦略だった。
「……そうか」
三成は深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「ならば、明日。天満山にて評議を開こう。そこで刑部殿の策を示し、陣と役目を定める」
腹を決めた三成の声には、迷いがなかった。
そう告げると、彼は吉継に一礼し、本陣を後にした。
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