鶴翼乃陣[1]
昼過ぎから降り始めた小雨は、日暮れが近づくにつれて音を増し、やがてしとしとという気配を失って本降りへと変わっていた。瓦や板壁を叩く雨音が重なり、夜の帳が下りるはずの刻であるにもかかわらず、空気は妙にざわついている。
準備を終えた龍仙寺衆は、大垣城松の丸に急拵えで設けられた小屋の中で、ただ静かに出発の刻を待っていた。すでに日は完全に沈んでいる。しかし、籠城軍の守備範囲を狭めるため、外曲輪の各所に放たれた火が闇を押し返し、雨に濡れた石垣や土塀を赤々と照らしている。その光景は、夜というよりも、無理矢理引き延ばされた黄昏のようだった。
本丸での軍議を終えた帰途、拓真と勘兵衛は松の丸へと続く廊下を並んで歩いていた。板敷きに落ちる雨の跳ね返りが足元を冷やし、二人とも口数は少ない。そんな折、不意に背後から快活な声が飛んできた。
「おう、お久しい! そこの御仁は、垣屋勘兵衛殿ではござらぬか!」
呼び止められて振り返ると、立っていたのは鎧姿の男。身なりからして、それなりの分限の武士であることは一目で分かる。だが、その顔にはまるで見覚えがない。
「……はて、どちらのお方でしたかな?」
勘兵衛が首を傾げ、拓真もまた記憶を探るが、心当たりは浮かばない。
「いやいやいや、貴殿が覚えておられぬのも無理はない。お会いしたのは一度きりでござったからな」
「一度きり……?」
男はにやりと笑みを浮かべ、胸を張った。
「拙者でござるよ。宇喜多の高橋主膳にござる」
「ああ!」
勘兵衛の顔に、ようやく合点がいったという色が浮かぶ。思わず手を打ち、拓真を振り返った。
「内匠殿、あの時のお方にござるよ。伏見でお会いした」
「あっ……!」
二年以上前──この世界へと放り込まれた直後に起きた出来事が、拓真の脳裏に生々しく甦った。
伏見の雑踏。その人波を裂くように現れた、血刀を提えた男。栢谷将監。理不尽な殺気に呑み込まれ、身動き一つ取れぬまま斬られかけたその瞬間、勘兵衛の放った一刀が運命を断ち切ったのだ。
そして、その将監を追っていたのが──今、目の前に立つ男、高橋主膳であった。
「ようやく思い出して下されたか。その節は、誠に助かり申した。ところで、こちらのお方はもしや……」
主膳の視線が、探るように拓真へと向けられる。
「あ、はい。その節はお世話になりました。工藤内匠頭と申します」
名乗りながら、拓真は思わず苦笑した。腰を抜かして動けなくなった自分の姿を思い出し、頬に熱が集まる。
「ホント、みっともないところをお見せしてしまって……」
「いやいや、ご無事で何より。あの時、もし貴殿に何かあれば、それこそ一大事でござった」
主膳は大きくうなずき、続ける。
「これも偏に垣屋殿のお陰。それで後日、御礼に伺ったのですが……お二方とも佐和山に戻られたと聞き、それきりになってしまったのが、どうにも心残りでしてな」
「いや、どうかお気になさらず。拙者共も、その件はすっかり忘れておったほどで……」
勘兵衛はそう言って、頭をかいた。
「そう申していただけると、拙者も幾分か気が軽うなり申す。垣屋殿には、いくら御礼を申し上げても足りぬほどでござる」
(大袈裟な人だなあ……)
拓真は内心でそう呟きながら、主膳の律儀さにどこか人の好さを感じていた。
「それほどのことでもござりませぬ」
「いやいや……家中の恥を晒すようで恐縮ですが、貴殿があの男を仕留められたお陰で、戸川肥後の悪謀が明らかとなりましてな」
「ほう、戸川様と言えば、確か……」
「左様左様。今年の初めに騒動を起こした、あの戸川肥後にござる」
宇喜多家重臣、戸川肥後守達安。主君、秀家と対立し、大坂の宇喜多屋敷を占拠するという前代未聞の騒動を引き起こした男。その一件は徳川家康の裁定で表向きは収まったものの、多くの有力家臣や一門衆が秀家のもとを去り、宇喜多家の衰退を招く結果となった。
「左様でござったか……」
「貴殿の豪傑ぶりは、今でも家中で語り草になっておりまする。本来であれば、御両所にご一献差し上げたいところですが……このような折では如何とも」
「いえ、お気持ちだけで十分にござる。実は拙者も、あの後で何か面倒なことになってはいないかと気にしておったのですが……何もないと分かり、胸を撫で下ろしました」
「それはもう。貴殿が討たれた栢谷の一族など、その日のうちに恐れをなして逐電しましたからな。仇討ちなど、毛ほども考えてはおらぬでしょう」
「なんと……」
武士の一族が、禄も地位も捨てて夜逃げ同然に姿を消す。その重さを思い、拓真と勘兵衛は顔を見合わせた。
「御両所が気に病むことではござらぬ。それに、この話には妙なオチが付きましてな」
「妙な、とは?」
「逐電した者の中に、止ん事無きお方と瓜二つの者がおったそうで……そのお方の御家中から声がかかり、今では一族もろとも召し抱えられておるとか」
「ほう……それは、確かに妙な話にござるな」
「まったくですね。ところで、その止ん事無きお方というのは一体——」
拓真が続きを促しかけた、その時だった。
廊下の向こう、雨音を切り裂くように、陣太鼓の重低音が鳴り響いた。
「あいや、拙者はもう行かねばなりませぬ」
主膳は一瞬で表情を引き締め、二人に向かって深く一礼する。
「垣屋殿、工藤殿。名残惜しゅうございますが、続きはまたの機会に」
そう言い残すと、主膳は鎧を鳴らしながら、雨と火の光が交錯する廊下の向こうへと駆け去っていった。
残された拓真と勘兵衛の耳には、太鼓の音と、夜戦が近づいていることを告げる雨音だけが、重く残っていた。
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