望日[4]
すっかり日が落ち、城内を包む闇は深く沈んでいた。
庭の玉砂利がぼんやり白く浮かび上がるほど明るい月が天に懸かっている。丸く澄み切った満月——今日は中秋の名月だ。
だが、その夜に似つかわしい賑わいはどこにもない。虫の声すら気配を探り合うように遠く、広い城は不気味なほど静まり返っている。
拓真は縁側に腰を下ろし、膝に肘をついたまま、月をぼんやりと見上げていた。
夜気は涼しく、木造の板間から吸い上げるように火照りを奪っていく。それでも頭の熱だけはひかず、じりじりと痛む。
「けい……ちょう……四百年前……。そりゃ南北線に乗ってるわけないよな……」
乾いた笑いが喉の奥でひっかかった。
冗談のつもりでつぶやいてみたものの、自分で言っていて現実味が薄すぎる。
だが一度“そうなのだ”と心が認めてしまうと、これまで疑問に感じていたことが芋づる式に合点がいき始めた。佐名の言葉遣い。衣装。建物の造り。電話という概念すら通じない会話。
(全部、辻褄が合うんだ。四百年前という前提なら)
「……いや、合ってほしくないんだけど」
胸の奥が空洞になったように、どくん、と遅い脈が響く。
理屈だけが先走り、心がそれに追いつかない。
佐名が告げた奇妙な日付——。
──はづきもちのひ。かぞえでとおかあまりいつか。としはつちのえいぬ。
意味不明だったその音の並びも、落ち着いて考えれば一本の線につながる。
葉月望日。数えで十五日。戊戌。
(ああ、そうか。そういうことだったのか……)
西暦なんて、この時代にあるはずもない。
明治より前は六十年で巡る十干十二支が時の基準で、年号は“知っていれば通じる”程度の補助にすぎない。
葉月は八月、望日は満月の十五日。太陰暦だから月の満ち欠けがそのまま暦になる。
「とおかあまりいつか」——十五日をそう呼ぶ。
年数だって同じで、一年は「ひととせ」、二年は「ふたとせ」、三年で「みとせ」。
知識としては昔から覚えていた。
だが今、その知識が——現実として目の前に迫ってくる。
足元を吹き抜ける風が、畳と木の匂いをふっと運んできた。
はるか四百年前の夜気。
架空の世界でしか知らなかった湿度と温度と静けさが、手触りを伴って迫ってくる。
「……マジで、どうなんだよ……」
呟きは月明かりに吸われ、闇へ消えていった。
逃げ場のない現実だけが、静かに、確実に胸へ沈んでいく。
*
慶長三年——。
その数字を頭の中でゆっくり転がしてみると、知識の引き出しが次々と勝手に開きはじめた。
拓真の脳裏に、日本史の年表が淡く浮かび上がる。
西暦一五九八年。安土桃山時代。
戦国時代の熱気と混乱のただ中に、自分は放り込まれたのだという実感が、ゆっくりと、しかし確実に胸を締めつけていく。
日本の戦国は、十五世紀の室町幕府の衰退と共に始まった。
荒れ果てた地方、割拠する群雄。
だが十六世紀半ば、尾張の織田信長が現れると、国の秩序は二十年足らずで塗り替えられていった——歴史を語る番組の映像が、走馬灯のように思い出される。
信長は……そう、あの最後の瞬間。
明智光秀の謀反。一五八二年、本能寺の変。
燃え盛る寺の中で果てた天下人の姿を思い浮かべると、背筋に冷たい汗がひと筋伝った。
その光秀もまた、すぐに羽柴秀吉の軍勢に討たれる。
秀吉は主君の仇を取り、その勢いのまま天下を継いだ。
関白に就き、豊臣の姓を賜り、一五九〇年に天下統一——年表上では、この年をもって戦国の世は終わったことになっている。
……だが、それは“紙の上では”だ。
この一五九八年は、豊臣政権の崩壊が始まる年。
秀吉は病に伏し、後継をめぐる火種がそこかしこに燻っている。
徳川家康がまだ牙を隠していた時代。
安土桃山時代——信長が室町幕府を滅ぼした一五七三年から、家康が江戸幕府を開く一六〇三年まで。
その、まさに終わりへ向かう直前の瞬間に、自分は立っている。
そして慶長三年は、豊臣秀吉がこの世を去る年でもある。
「八月十五日って、秀吉が死ぬ三日前か……」
拓真は片膝を抱え込み、夜気を吐きながら伏見城本丸を眺めた。膨らんだ月は薄雲に覆われ、鈍い光が城の白壁を淡く染めている。無数の篝火が風に揺れ、そのたびに天守閣が波紋のように揺らぎ、まるで巨大な幻影が呼吸しているかのようだった。
「あそこにいるんだよな……」
胸の奥で、生々しい実感と現実味のなさがせめぎ合う。臨終間際とはいえ、日本史上屈指の英雄と同じ時代の空気を吸っている──その事実が、重い石のように腹に落ちてくるまでには、まだ時間がかかりそうだった。だが、幻想めいた城の光景を見ているうちに、昂ぶっていた心は少しずつ冷静さを取り戻していく。
「殿様ってのは、やっぱ石田三成だろうな……」
治部少丸という名は、秀吉の重臣、石田治部少輔三成の屋敷だからだ。とはいえ、その人物像を決定づけるには、手元の情報はあまりにも少ない。
「でも、詳しいことは何も教えてくれなかったな……」
佐名は拓真の問いに、満足のいく回答をほとんどくれなかった。知らないのか、言えないのか。それとも──言ってはならないのか。思案は霧のようにまとわりつき、視界の端を曇らせる。
「アイのことも『知らない』の一点張りだったし……」
わずかな時間しか共にいられなかったが、最後に見たアイの姿は、胸の奥でいまだに焼けつくように残っている。どうしても、あの後どうなったのかを知りたい。しかし、いまの自分には手掛かりすらない。
「どうすりゃいいんだ、これから……」
遠くでかすかに虫が鳴く。歴史の渦中に放り込まれた現代人の孤独と不安は、闇の中でひっそりと形を成し始めていた。
*
拓真が縁側で頭を抱えていた頃──その静けさとは対照的に、治部少丸の一室では灯火がまだ揺れていた。
「お帰りなさいませ、兄上様」
襖をそっと開けた佐名が頭を下げる。呼びかけられた男、垣屋勘兵衛元綱は、薄暗い室内で背を丸め、ろうそくの明かりに照らされた硯の前で筆を走らせていた。二十四歳、佐名より六つ年長の兄。石田家の鉄砲備──すなわち鉄砲部隊の組頭を務める男である。
「こんな夜更けにいかがした?」
筆先を止めぬまま、低くくぐもった声だけが返る。紙を滑る筆の音が、妙に孤独な響きをもって部屋に漂っている。忙しさに追われているのは明らかだった。
「一昨日お連れなされたお方が、お目覚めになりました」
「そうか。大事はなかったか?」
ようやく、筆の速度がわずかに緩む。
「少々取り乱しておられましたが、お健やかなご様子でした」
「左様か」
短い返事。しかし、兄としての安堵が微かに混じっていた。
「今からお会いになりますか?」
佐名が遠慮がちに問いかけると、勘兵衛はようやく筆を置いた。硯の水面が揺れ、かすかに光を反射する。背を伸ばし、障子の向こうへ目を向けた。
夜空には、冴え冴えとした月が浮かんでいた。あまりに静かで、息を呑むほど美しい。戦乱の世のただなかにいることを、一瞬だけ忘れさせるほどに。
「……いや。御家老様がまだお帰りになっていない。それに、今日はもう遅い」
月を見上げたその横顔には、責務の重さと疲労の影が落ちていた。
言い終えると勘兵衛は、何事もなかったかのように筆を取り、紙の上へ静かに置いた。再び筆音が響き始める。だがその音は先ほどよりわずかに軽やかで、どこか安堵が混じっているように聞こえた。
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