中入[2]
「上様。こちらへお越し下され」
促されるままに家康が歩み寄り、山頂の陣から戦場を見下ろした瞬間、視界が一気に開けた。低く垂れ込めた雲の切れ間から淡い光が差し、平野と城郭、そして点在する陣幕がまるで盤上の駒のように配置されているのが見える。
「なるほど……これは良い。敵の様子が、手に取るように見えるわ」
家康は満足げに頷いた。城の石垣の線、濠の形、兵の動線までが一望できるこの高さは、まさしく支配者の視座だった。
「城内の者どもの慌てぶりまで、見通せましょうな」
傍らに立つ黒田長政が、口元に薄く媚びた笑みを浮かべる。その声には家康の機嫌を損ねぬよう計算された軽さがあった。
「甲州殿。あれが南宮山かえ」
家康は南西の方角へ視線を移し、ゆるやかに指を伸ばす。
「左様にございます。あれなる山が南宮山。あそこに中国勢が陣を構えておりまする」
長政は即座に応じた。家康の視線の先、南宮山の稜線には陣幕が連なり、山頂に軍が居座っているのがはっきりと見える。
「あのような山に登って……宰相殿は、本気で戦をする気があるのかの?」
家康の声は穏やかだったが、その奥には鋭い疑念が潜んでいた。
「宰相様はまだお若うございますゆえ、あれは侍従殿のお知恵かと。侍従殿は老練なお方。なにやら腹積もりがおありなのでしょう」
安芸宰相、毛利秀元と、その補佐役である出雲侍従、吉川広家。彼らが率いる一万の兵は、南宮山の山頂に陣を布いている。高所は守りに強いが、攻めには不向きだ。あの布陣は前に出る意思を欠いた、極めて消極的な後詰である。
「甲州殿の見立てなら、そうやも知れぬな」
家康は鼻先で小さく笑った。
「毛利の衆も……治部に誑かされたと、ようやく気付いたか」
そう呟くと、家康はゆっくりと踵を返した。
背後には、東軍の諸将がずらりと居並んでいる。戦場を前にしてなお背筋を正し、家康の一言を待つ獣たちだ。
「皆の働きぶり、まことに見事である」
家康は一人ひとりを見渡しながら、声に張りを持たせた。
「この家康、真に感服いたした。この上は一刻も早く治部を討ち、謀反人どもから二位様をお救い申そうぞ!」
「おうっ!」
地を揺らすような鬨の声が上がる。諸将の胸には、忠義と戦功への渇望が燃え盛っていた。
──家康は常に、諸将の前では秀頼の代行者であり続けた。
後世に伝えられるところによれば、下野国小山において諸将が集い、家康自らが三つの選択肢を提示したという。
すなわち──。
「上杉を討つか」
「石田三成を討つか」
「あるいは三成に与するか」
世に言う「小山評定」である。
突如として突きつけられた重大な決断に、居並ぶ諸将は言葉を失い、場は一時、重苦しい沈黙に包まれた。だが、その空気を破ったのが福島正則の一言だった。彼の率直な発言をきっかけに、流れは一気に三成討伐へと傾き、山内一豊が領地を差し出して家康への臣従を誓う。諸将はそれに倣い、次々と膝を折った──。
そうした筋書きが、まことしやかに語られてきた。
しかし、史実に照らせば、この逸話には致命的な齟齬がある。評定が行われたとされるその日、福島正則はすでに清洲へ向けて街道を急いでおり、物理的に小山に居合わせること自体が不可能だったのだ。
つまり、「小山評定」とは後世に編まれた物語に過ぎない。
──家康は力で天下を奪ったのではない。
──諸将に推戴され、やむなく政権を担ったのだ。
そうした印象を人々の心に刻みつけるために用意された、周到な政治的演出であり、同時に講談や軍記を面白く彩るための創作でもあった。
徳川幕府の正統性は、戦場だけでなく、物語の中でもまた、巧みに築き上げられていったのである。
合理的に考えれば、家康がそんな選択肢を提示するはずがない。
秀吉の遺言により、秀頼が成人するまで天下の政は家康に託されている。すなわち、家康を排除しようとする三成らの挙兵こそが、豊臣の遺命を破る謀反に他ならない。その三成に味方する道を示すなど、豊臣家への反逆を容認する行為そのものだ。
ゆえに家康は論を一つに絞った。
──豊臣家のために、謀反人石田三成を討つ。
この大義があったからこそ、上杉征伐に従軍した諸将は迷わず家康に従ったのである。
赤坂の本陣には、福島正則、池田輝政、長岡忠興、加藤嘉明、黒田長政、藤堂高虎、浅野幸長、田中吉政、生駒一正、山内一豊──東軍の名だたる武将たちが顔を揃えていた。
家康は軍議に先立ち、傍らの老将に視線を向ける。
「この先、いかに事を運ぶか。中書、そなたが話せ」
本多中務大輔忠勝。
十三の初陣以来、四十年にわたって戦場を渡り歩き、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉すらその武を賞賛した男である。榊原康政、井伊直政と並ぶ徳川の柱石。今は幕僚として、家康の最も近くに控えていた。
「事ここに極まり申した以上、打つ手は一つ」
忠勝の声は低く、よどみがない。
「城に籠もる勢には目もくれず、後詰の中国勢を討ちまする。これにより城の勢が出てくれば上々。出てこず、後詰を見殺しにすれば、治部殿は信を失いましょう。さすれば敵方に付いた大名どもも、離散は免れませぬ」
後詰なき籠城は、もはや戦とは呼べない。目と鼻の先に援軍がある以上、まずそれを叩く──攻城戦の鉄則である。
この方針に異を唱える者はいなかった。皆の関心は、次なる陣立てへと移る。
「先鋒は、是非それがしに!」
「いや、我こそが!」
「お任せあれ!」
福島正則を筆頭に、諸将が我先にと名乗りを上げる。先鋒は最も危険だが、同時に最大の手柄を得られる役目だ。
「なんと勇ましいことよ」
家康は満足げに頷いた。
「さすがは武勇で名を馳せた武者衆じゃ。皆の忠義、必ずや二位様にお伝え申す。常世の殿下も、さぞやお喜びであろう」
一拍置き、声音を変える。
「──なれど、此度は徳川勢に任されよ。中国勢は所詮小者。方々は城を囲んでくだされ。中の勢が出てくれば、それこそ好機。治部が首は、お譲りいたす」
その一言で、すべてが決まった。
徳川勢は南宮山の後詰を叩く。諸将は大垣城を包囲する。
もし三成が動けば、その瞬間を逃さず、総攻撃。
戦の歯車は、静かに、しかし確実に回り始めていた。
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