十三夜月[4]
九月に入ると、西軍の結束には目に見える綻びが生じ始めた。
張り詰めていた糸が、少しずつ、しかし確実に弛んでいく。陣中には理由のわからぬ不安が漂い、噂は夜の湿り気とともに広がっていった。
七日。
北陸攻略に参加していた京極高次が、突如として東軍に寝返り、近江の居城、大津城に立て籠もったという報が入る。
三成は即座に判断し、一万五千の兵を大津へ差し向けた。反応としては迅速であり、判断そのものに誤りはない。
もし──小早川秀秋が本気で寝返るつもりならば、この局面で動いているはずだった。
大津城の後詰として西軍の背後に回り、退路を断ち、一気に形勢を決める。
だが、秀秋は動かない。
沈黙は続き、軍勢も相変わらず近江と伊勢を彷徨うばかりだった。
その態度を見て、三成は結論を下した。
──金吾様は、寝返るつもりはない。
貴人特有の気まぐれ。優柔不断ゆえの逡巡。いずれにせよ、決定的な敵意はないと。
その判断が、どれほど致命的であったかを、彼はまだ知らない。
「明日、金吾様は松尾山城に入られます」
拓真の声が、望楼の静けさを裂いた。
松尾山城──東山道防御の要衝であり、山頂からは関ヶ原一帯を一望できる城。現在は伊藤長門守盛正が守っているが、明日には秀秋がその城を占拠するという。
「松尾山城が……取られるのか」
左近の顔が、さらに険しく歪んだ。
「さすが内府よ。まったく見事な手並みだ」
吐き捨てるように言い、低く息をつく。
「口惜しいが……我が殿より、数枚も上手じゃわ……」
本音だった。
悔しさと同時に、認めざるを得ない現実が胸を締めつける。
秀秋が明確に東軍へと心を決めたのは、おそらく八月末。
それ以降も西軍を装い、厭戦的な態度で近江と伊勢を回遊し、大津城を救援しなかったのは、すべて家康の指示によるものだ。
そして家康が大垣表に姿を現すと同時に、松尾山城を押さえる。
それだけで、三成たちは詰む。
松尾山を押さえられれば、佐和山への交通は遮断される。
退却も、援軍の合流も不可能となる。
さらに巧妙なのは、秀秋を近江高宮に置いた点だった。
高宮は佐和山からわずか一里──およそ四キロ。
もし三成が家康到着前に美濃からの撤退を決断しても、佐和山城に真っ先に到着するのは小早川勢。秀秋が味方の顔をして入城し、八千の兵で占拠してしまえば、佐和山城は一瞬で陥落する。そして東山道は完全に封鎖される。
逃げ場はない。
小早川勢が高宮に布陣した九月七日の時点で、この勝負はすでに詰んでいた。
「……なるほど。これでは勝てぬ」
拓真の言葉に、左近ははっきりと理解した。
三成が、どこで、どうして敗れるのか。その全てが、一本の線となって脳裏に繋がる。
「山中に居られる刑部様が、金吾様に当たられます」
松尾山の麓、山中村に布陣している大谷吉継。
秀秋に最も近く、そして最も危うい位置にいる将である。
「龍仙寺衆なら……金吾様を押さえられる、というわけか」
「はい。ですが、金吾様と戦うとは限りません」
「……ほう?」
「戦が始まってからも、金吾様は迷われます」
拓真は静かに言った。
「その間に、我々が内府様を討ってしまえば──寝返る理由そのものが消えます」
関ヶ原当日。
史書に語られるのは、参戦を渋る秀秋に業を煮やした家康が松尾山へ鉄砲を撃ち込み、それに驚いた秀秋が山を駆け下って西軍を横撃した、という「問鉄砲」の逸話である。
それは正午過ぎの出来事とされる。
だが、その話が後世の創作であることを、拓真は知らない。
実際には、秀秋は開戦と同時に大谷吉継を攻撃している──それは、二〇一一年三月十一日以降に明らかになった史実だ。
知らないがゆえに、拓真は賭けに出る。
そして、その賭けには、明確な理由があった。
「刑部様に、龍仙寺衆を預けるのはいざという時のためか……」
「はい。何卒、お願いいたします」
拓真は深く頭を下げた。
だが、その胸中にあるのは、戦術だけではない。
雷振筒ならば、どれほど不利な局面でも覆せる。
それほどの兵器を、彼は創ってしまった。
だが同時に、その引き金を引くたびに、膨大な血が流れることも理解している。
勝つために必要だとしても、犠牲は最小限に抑えたい。
吉継に龍仙寺衆を預けても、秀秋が動く前に家康を討つことができれば、二百六十三名は雷振筒を撃たずに済む。
それが身勝手な偽善であることは、百も承知している。
それでも──それでも拓真は、雷振筒による流血を、可能な限り避けたかった。
「……わかった」
左近はしばし考え込み、やがて小刻みにうなずいた。
「お主がそこまで考えて言うのなら、それが良いのだろう」
「刑部様には、儂から話を通そう」
「ありがとうございます」
拓真は、ようやく胸の重石が外れたように息を吐いた。
盃に残った酒を一気に干すと、月明かりの下で、ほんのわずかに安堵の色を浮かべる。
戦は、もう避けられない。
だが、その中でどれだけ血を減らせるか──それもまた、自分の責任であると、拓真は信じていた。
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