十三夜月[3]
決戦の二日前。
日が完全に沈み、城下が夜の色に塗り替えられた頃、島左近は拓真を伴って大垣城天守の望楼へと上った。
天には十三夜の月が冴え冴えと浮かび、その淡い光に照らされた濃尾の平野には、無数の篝火が星座のように散らばっている。風に揺れる火は、ひとつひとつが兵の命であり、意志であり、そして明後日には消えるかもしれぬ灯であった。
高みから眺めるその光景は、現実離れしたほどに美しく、同時に底知れぬ不気味さを孕んでいる。
二人はしばらく無言のまま、その幻想的な眺めを肴に盃を傾けた。
「……いよいよ、ここまで来たな」
ぽつりと呟いた左近の声には、感慨とも覚悟ともつかぬ重みが滲んでいた。
「はい」
拓真は短く答え、月明かりに浮かぶ平野から視線を外さない。
「それで……どうだ?」
左近の言葉は曖昧だが、意味は明確だった。
問うているのは軍勢でも士気でもない。拓真だけが知っている“棋譜”──すなわち、これから起こるはずの流れそのものだ。
「今のところ、問題はありません」
拓真はそう言ってから、わずかに間を置いた。
「おそらく明日、あの赤坂に内府様が現れます」
そう告げると、敵陣の中でもひときわ明るく燃える一角を指差した。火の密度が違う。人も、意志も、そこに集まりつつあることが遠目にもわかる。
「そうか……内府が来るのは、明日か」
左近は低く呟き、盃を一息に干した。喉を焼く酒の感触が、現実を身体に引き戻す。
「内府様が現れれば、大垣城に籠もる軍勢は城を出ます」
ここまで煮詰まった以上、もはや未来を語ることにためらいはなかった。
拓真には、今この場で左近に伝えねばならぬことがある。
「軍勢はそこから南宮山を南回りに進み、関ヶ原を目指します」
「ほう……関ヶ原か」
左近は月を仰ぎ、ゆっくりと息を吐いた。戦場の名を口にしただけで、胸の奥がざわつく。
「私と勘兵衛さんと外記は、途中で南宮山に登ります」
「……あの穴蔵へ行くのか?」
「はい」
拓真は頷き、言葉を継ぐ。
「残りの者たちですが──」
南宮山には襲撃部隊として八十六名。
そして残る二百六十三名は、左近のもとで動かす。
「全員、大谷刑部様にお預けください」
「刑部様に、か……?」
左近の眉がわずかに動いた。
「それは一体……」
「それは……」
そこまで口にして、拓真は一度、言葉を呑み込んだ。喉が乾き、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
「──明後日の昼、金吾様が寝返るからです」
夜気が、ふっと冷えた気がした。
「…………」
左近は何も言わず、ただ苦虫を噛み潰したような表情で闇を睨んだ。否定も、驚愕も、即座には言葉にならない。ただ、その名が持つ重さだけが、沈黙となって落ちた。
金吾中納言──小早川秀秋。
北政所の甥として生まれ、幼少より秀吉の養子となり、同じ養子である秀次と並んで育てられた男。かつては、誰もが次代の主と目した存在だった。
だが、秀頼の誕生がすべてを変えた。
後継を巡る争いの果て、秀次は切腹へ追い込まれ、秀秋は小早川家へ養子に出され、豊臣家の継承権を失う。そこから彼の人生は、転がり落ちるように歪み始めた。
さらに四年後。
十七歳で朝鮮に出陣していた秀秋は、突然秀吉に呼び戻され、筑前名島三十五万七千石から、越前北ノ庄十五万石への移封を命じられる。
明確な落ち度もないまま、半分以上の所領を奪われた理由は示されなかった。代わりに広まったのは、三成ら近江衆の讒言によるものだ、という噂だけ。
真相を知る者は、もういない。
その年の八月、秀吉は死んだ。
途方に暮れる秀秋を救ったのは、家康だった。
秀吉の死後、家康はその処分を撤回し、秀秋を元の所領へと復帰させる。
三成には遺恨があり、家康には恩義がある。
それが、秀秋という男の立ち位置だった。
三成挙兵ののち、秀秋は一度は東軍に与しようとした。だが三成から、秀頼成人までの関白職と大幅な加増を示されると、あっさりと西軍へ転じる。
だが、決断はそこまでだった。
公達として何不自由なく育った秀秋は、物事を常に自分中心に考え、他者の思惑を量ることができない。加えて、優柔不断で決断を極端に嫌う性格。
西軍に属しながらも、家康への連絡は絶やさず、双方に曖昧な態度を取り続けた。
伏見城攻め、伊勢攻略には顔を出したものの、東軍の美濃侵攻が始まった八月半ば以降は、露骨なサボタージュに転じる。軍勢は近江と伊勢を転々とし、大垣入城の要請にも応じない。
現在、秀秋は関ヶ原から七里ほど離れた高宮に布陣したまま、動こうとしない。
西軍諸将の間には、秀秋への不信が噴き上がっていた。
だが、本人が明確な敵対行動を取らない以上、強く糾弾することもできず、結果として放置されている。
その沈黙が、何を意味するのか。
望楼の上で、左近は再び盃を手に取った。
月明かりの下、揺れる篝火は変わらず美しい。だがその一つ一つが、裏切りと決断の予兆に見えてならなかった。
戦は、すでに剣を交える前から始まっている。
そして、その最も危うい一手が、刻一刻と近づいていた。
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