朔日[4]
長月朔日は、徳川家康が江戸を発った日でもあった。
上杉征伐に従軍した諸大名に対し、西上を命じたのは七月二十六日。
それから家康は一月以上もの間、江戸に留まり続けた。表向きには兵の集結を待つためだが、実際には水面下での政治工作に、ほぼすべての時間を費やしていた。
敵は石田三成だけではない。
差し当たって、もっとも現実的で、もっとも危険な脅威は──北にあった。
家康を迎え撃つため、上杉家はおよそ五万に及ぶ兵を動員している。さらに隣国、常陸には、親三成派の大名で、東軍に与しなかった佐竹義宣が控えていた。平安の昔から常陸を治めてきた佐竹家なら、掻き集めれば二万は動かせる。
つまり、江戸の北には最大七万の敵が存在する。
その背後を放置したまま、本拠地を空けて西へ向かう──そんな愚を、家康は犯さない。
だからこそ、最初に取りかかったのは、上杉、佐竹への対策だった。
その要となる人物が、伊達政宗である。
伊達家の領地は上杉の北に隣接し、動員力は一万七千を超える。政宗が背後から睨みを利かせるだけで、上杉は大軍を動かせなくなる。上杉が動かなければ、佐竹もまた身動きが取れない。
政宗は、秀吉存命の頃から家康に接近し、表向きは友好関係を築いてきた。政治的立場も親家康派として明確だ。
──だが、当の家康は政宗をまったく信用していない。
十八歳で伊達家の当主となった政宗は、わずか五年足らずで奥羽に一大勢力を築き上げた男だ。天下を狙う野心を抱き、その才覚を惜しみなく振るったが、秀吉によってその夢は打ち砕かれた。
とはいえ、政宗はまだ三十三歳。若く、才に溢れ、野望の火を完全に消し去るには、あまりにも早すぎる年齢だった。
政宗の立場で考えれば、この情勢がどれほど甘美なものに映るか──家康には痛いほど分かっていた。
最悪の筋書きは、政宗が裏切り、上杉、佐竹と手を結ぶこと。そうなれば、もはや天下取りどころの話ではない。徳川家は根元から崩れ去る。
家康はこのひと月、親子ほども年の離れた政宗の心を掴むため、あらゆる手を尽くした。
宥め、賺し、煽て、時には頭を下げ、ついには百万石という破格の報償まで約束する。なりふり構ってはいられなかった。
同時に、越後の堀秀治、出羽の最上義光、下野の蒲生秀行らに牽制を命じ、上杉包囲網の構築にも心血を注いだ。
北を縛らねば、西へは進めない。
もちろん、西への備えも怠ってはいない。
家康は北方対策と並行しながら、精力的に諸大名へ働きかけ、内応や離反の約束を次々と取り付けていった。
本命は、あくまで西軍の撃破。
しかも、短期決戦でなければならない。
戦線が膠着すれば、ようやく手懐けた政宗の心が再び揺らぐ恐れがある。加えて、美濃以西に領地を持つ大名の兵糧は、家康が面倒を見なければならず、戦が長引けば補給は必ず行き詰まる。
何より恐ろしいのは、豊臣秀頼の出馬だった。
今は生母である淀の方が強硬に反対しているため実現性は低いが、時間を与えれば三成が口説き落とす可能性は否定できない。秀頼が戦場に立てば、尾張衆は刃を向けられない。そこで勝負は終わる。
ゆえに、家康は濃尾平野での短期決戦を基本戦略と定めた。
尾張から美濃に広がる平野は大軍の展開に適し、野戦でも攻城戦でも決着をつけやすい。西軍の主力をここで叩き潰せば、大勢は決する。
この地には、二つの戦略要衝がある。
尾張の清洲城と、美濃の岐阜城。いずれも、かつて織田信長が天下への足場とした城であった。
家康は西上する諸大名に、最優先でこの二城を押さえるよう厳命する。清洲城は福島正則の居城で東軍だが、岐阜城主、織田秀信は西軍に属していた。
清洲を失えば美濃への侵攻は困難となり、岐阜を拠点にされれば戦は長引く。
三成挙兵の報を受けた家康が、真っ先に福島正則へ清洲城の防備を固めるよう命じたのは、このためである。
そして八月二十三日。
清洲城に集結した東軍諸将は、六千で守られた岐阜城に対し、三万五千という大軍で攻めかかり、わずか一日でこれを陥落させた。
この報に、三成は戦略の大幅な修正を余儀なくされる。
一方、家康は胸中で確信した。──短期決戦で、勝てると。
九月一日。
北方への備えに目処が立ち、西上の条件が整ったことで、家康はついに腰を上げた。
三万二千の兵を率い、美濃を目指す。
その背には、未だ消えぬ不安と、それを力で押し伏せた冷徹な覚悟が、重く張り付いていた。
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