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Last resort  作者: 蒼了一


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朔日[1]

 奥羽から九州に至るまで、列島は戦乱の熱に包まれていた。烽火は各地で上がり、街道には兵が溢れ、城では日々、運命を賭けた決断が下されている。


 ──だが、龍仙寺だけは違った。


 山あいに抱かれたこの砦は、八月の末になっても風は穏やかで、鳥の声すらどこか遠い。苔むした石段に落ちる木漏れ日はやわらかく、戦の気配など一切感じさせない。まるで世のすべてがこの場所だけを避けて荒れ狂っているかのようだった。


「えっと……安藝(あんげい)安芸(あき)か。宰相、伊勢……? 五平、これ、なんて書いてあんの?」


 縁側に広げた書状を前に、拓真は眉を寄せた。墨のかすれた崩し字が、こちらを嘲るように並んでいる。


「これは……安濃津(あのつ)でございますな」


「あっ、安濃津城のことか」


 納得したように頷き、拓真は「安濃津」の文字を睨みつけると、手元の紙に素早く書き写した。


 挙兵以降、左近からは毎日のように書状が届いている。西軍の動き、諜報によって掴んだ東軍の状況。その一通一通が、刻一刻と変わる戦局を映し出していた。


 これは単なる報告ではない。


 ──自分の知る“歴史”と、今まさに進行している現実とを照合するための、確認作業だ。


 ちなみに、家康方を東軍、三成方を西軍と呼ぶのは後世の呼称であり、当時はそんな呼称を使っていない。だが拓真の頭の中では、その区分けが不可欠だった。


「じゃあ、これ。ここ、何山って書いてあるの?」


瑞龍寺(ずいりゅうじ)山でございますな。稲葉山(金華山)の裏鬼門に当たる山でございます」


 拓真はこの二年で、かなり崩し字を読めるようになった。それでも、完全には程遠い。こうした難所にぶつかるたび、家臣の北川五平の助けを借りることになる。


「よし。今日の分はここまでだ。ありがとう五平。次は大垣に行ってから、また頼むよ」


 五平が一礼して下がると、縁側には再び静寂が戻った。


 拓真は今日まとめたメモを見返し、深く息を吐く。


「……いよいよ、ここまで来たか」


 関ヶ原の戦いは、日本史の中でも群を抜いて注目度の高い合戦だ。フィクションから学術研究に至るまで、関連書籍は今なお数え切れないほど刊行されている。拓真自身、仕事で何度も関わってきた題材であり、当時の情勢については相当な知識を持っている自負があった。


 ──だが。


 いま手元にある情報は、その知識をすでに凌駕していた。


 生きた情報が、日々、雪崩のように積み上がっていく。


 山のような報告を精査し、記憶と丹念に照合する。どこが一致し、どこがズレているのか。それを確かめることが、挙兵後の拓真の日課になっていた。


 確認用に作った時系列表は、東軍側の情報不足や記憶の曖昧さもあって、決して完璧とは言えない。それでも、大局的な流れはほぼ史実通りに進んでいる。


 伏見城を落とした西軍は、伊勢、北陸方面へと勢力を伸ばし、東軍の拠点に次々と圧力をかけている。


 一方の東軍は清洲城に集結し、尾張から美濃にかけて軍勢を展開。


 八月二十三日、東軍は岐阜城を攻略。


 この城の陥落により、大垣城が西軍最前線の橋頭堡となった。


 慶長五年九月十四日。


 家康は大垣城の北西、約四キロの赤坂に着陣する。


 大垣に集結していた西軍は、東山道を西進しようとする東軍を迎え撃つため関ヶ原へ移動。


 翌十五日、両軍は激突する。


 岐阜城が落ちたことで、すべての条件は整った。


 これで──よほどの異変が起きない限り、関ヶ原での衝突は避けられない。


 拓真はメモから視線を上げ、静かな庭を見渡した。


 穏やかな風景の奥で、確実に運命の歯車が噛み合っていくのを感じながら。


 ──今のところ、事態は棋譜通りに進んでいる。

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