謀議[1]
「……貴殿は、正気か」
七月三日の夜。
佐和山城の一室には灯明がひとつ揺れているだけで、障子の外には湿った闇が広がっていた。虫の声すら遠く、沈黙が重くのしかかる。
その静寂を破ったのは、震えを帯びた低い声だった。
声の主──大谷刑部少輔吉継は、三成の正面に端座していた。越前敦賀五万石の領主。年は三十六。三成と同じ近江の出で、十代の頃から豊臣秀吉に仕え、ともに政権を支えてきた男である。
聡明にして知勇を兼ね備え、軍事、行政の双方に通じた稀有な才人。
だが、二十代の初めに発症した病は次第に身体を蝕み、今やその眼から光を奪っていた。政務の第一線から退いた理由も、そこにある。
それでも、吉継の思考は衰えていない。理をもって物事を捉える冷静さは三成とよく似ていた。だが──人望においては、二人の間には決定的な隔たりがあった。
吉継は、人当たりがよかった。
裁定においても情を汲み、相手の立場を慮る。その姿勢は大名達に評価され、近江衆を毛嫌いする尾張衆ですら、吉継だけは別格として一目置いている。
軍略の才も折り紙付きだ。
かつて秀吉が「紀之介(吉継)に百万の軍勢を与え、思うままに軍配を振らせてみたい」と語った逸話は、今も人々の記憶に残っている。
その吉継が──今、声を震わせている。
上杉征伐のため江戸へ向かう途上、美濃垂井宿で三成に呼び止められ、佐和山城に寄った。そこで打ち明けられたのが、挙兵の決意である。
愕然とし、耳を疑い、理を尽くして思いとどまらせようとした。
だが、どれほど言葉を重ねても、三成は首を縦に振らない。
焦りが胸を焼き、吉継はついに声を荒らげた。
「よされよ、治部殿! 勝ち目はござらぬ! 一族郎党を、地獄の釜へ投げ込むお積もりか!」
「刑部殿のご懸念は、いちいち最も」
三成の声は、奇妙なほど静かだった。
「なれど、ここで兵を挙げねば、二位様の天下は奪われる」
感情を押し殺したその言葉に、吉継の胸がきしむ。
「……確かに、内府様の振る舞いを見れば、治部殿が豊家の末を案じられるのは至極当然」
そう言いながら、吉継は膝前に右拳を突き立て、わずかに身を乗り出した。
「なれど……なれど、それは軽挙にござる。治部殿が兵を挙げたとて、内府様には到底敵いませぬ。もし貴殿が討たれれば──それこそ、豊家の末は如何なりまするか」
「そのために、お主を呼んだのじゃ」
三成は一歩も引かない。
「儂一人では無理でも、心ある者が共に立てば、必ずや事は成る。頼む、刑部殿。儂と共に、旗頭となってくれ」
(ああ、なんという──)
吉継の胸に、苦い痛みが走る。
二人は十代の頃から互いの才を認め合い、友情を育んできた。
秀吉の股肱として天下取りに奔走し、統一後は奉行として公儀を支えた。
豊臣政権は、二人にとって生涯を賭して築き上げた“作品”と言っていい。
それが今、徳川家康に奪われようとしている。
三成の怒りも焦燥も、吉継には痛いほど伝わってくる。
(──しかし……)
ここで踏みとどまらせねばならない。
友情を踏みにじってでも、命を賭してでも。
家康は天下最強の大名だ。
大軍を自在に操る野戦の名人。小牧長久手では、あの秀吉すら退けた。
志ある者を集め、数を揃えたところで、三成の挙兵が成功するとは到底思えない。
「……買いかぶりにござる」
吉継は、静かに首を振った。
「かつてならばいざ知らず、盲いだこの身では、もはや御役に立てませぬ」
病によって盲目となった彼の世界は、常に闇の中にある。
「それは、刑部殿らしからぬ」
三成は即座に言い返す。
「目は見えずとも、頭はかつてのままであろう」
「その頭が申しております」
吉継の声は、硬い。
「内府様と戦うを良しとはせぬと。そもそも、なぜこれほど急がれるのか。内府様は江戸にあって、多くの大名を率いておられる。今ここで事を構えれば、彼らすべてを敵に回すやもしれませぬ。兵を挙げるにも、潮時がござろう」
「今ならば、大坂伏見を確実に押さえられる」
三成の目は、すでに戦場を見据えていた。
「二位様の御教書を戴き、帥を興せば、豊臣恩顧の大名はもちろん、外様衆も味方に馳せ参じるであろう」
──理は、わからぬでもない。
だが現実は苛烈だ。
家康が掌握する七万五千の兵力。その前に、御教書がどこまで効力を持つというのか。
大名にとって最優先されるのは、自家の存続と繁栄。
家康を敵に回してまで、豊臣家に殉じる者がどれほどいるか。
おそらく、数えるほどだ。
しかもその多くは──三成を蛇蝎のごとく嫌っている。
「……だとしても、今は潮時ではござらぬ」
吉継は、言葉を一つひとつ噛みしめるように続けた。
「此度は何卒、ご自重下され。内府様を討つならば、尾張衆の方々とも手を携えねばなりませぬ。そのためであれば──この刑部、身命を賭して仲立ちいたす」
それは、理だけでなく情をも尽くした言葉だった。
己の立場も、危険も、すべて承知の上で差し出された友情の証。
三成の胸に、熱いものが込み上げる。
(──紀之介……)
その名を呼びたい衝動を、三成は歯を食いしばって押し殺した。ここで揺らげば、すべてが崩れる。積み上げてきた覚悟も、決断も、もろともに。
そして、唸るような低い声で、三成は告げた。
「……もはや、遅い」
その一言に、部屋の空気が凍りつく。
「遅い……とは?」
吉継の声が、わずかに裏返った。
「もしや……拙者の他にも、この企てを洩らされたか?」
「内府が……江戸にいる」
ただそれだけを、三成は言った。
瞬間、吉継の全身を雷が貫いた。
(──そうか)
上杉征伐。
直江兼続。
江戸に集められた諸大名。
断片が一瞬で繋がり、冷たい理解となって胸に落ちる。
「な……なにゆえ……」
問いかけは、途中で途切れた。
──もっと早く相談してくれなかったのだ……。
策を練り直す道も、血を流さぬ道も、探せたかもしれぬ。
その思いを汲み取ったのだろう。三成は、珍しく視線を伏せ、低く言った。
「……言えば、止めたであろう」
「なんと…………」
吉継は、それ以上言葉を紡げなかった。
がくりと両肩が落ち、首が垂れる。
闇しか見えぬ眼差しが、さらに深い闇へ沈んでいく。
その姿に、三成の胸が締め付けられた。
(これ以上は、酷だ)
三成は席を立ち、障子越しに控えていた近習を呼ぶ。
「刑部殿、今宵はもう遅い。寝所は用意してある。話の続きは、明日にいたそう」
だが、吉継はその申し出を、小さく首を振って拒んだ。
「……いや、儂は帰る」
静かだが、疲れ切った声だった。
「今宵の内に、垂水へ帰る。佐和山におっては……戦気に呑まれそうじゃ」
それは、己を守るための言葉でもあった。
この城に留まれば、三成の覚悟に引きずり込まれてしまう。理も、感情も、抗えなくなる。
吉継はよろめくように立ち上がり、誰の手も借りずに踵を返した。
足取りは重く、背中はひどく小さく見えた。
その夜、吉継は佐和山を去り、垂水宿へと引き揚げた。
──それから数日。
吉継は、何度も筆を執った。
理を尽くし、情を尽くし、時には怒りを、時には哀願を綴って、佐和山へ手紙を送り続けた。
だが──。
三成の考えを翻すことは出来なかった。
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