淡海[3]
「…………ん」
浅い眠りの底から、ゆっくりと意識が浮かび上がる。どれほど眠っていたのか、時間の感覚は曖昧だった。先ほどまで耳を満たしていた雨音は、いつの間にかすっかり止んでいる。かわりに、戻り始めた暑気が、じわりと肌にまとわりつき、拓真を微睡みから引き離した。
──だが、不思議と不快ではない。
胸元から頬にかけて、柔らかな風が絶え間なく注がれている。その心地よさに気づき、拓真は重たい瞼を押し上げた。
「……佐名……さん?」
視界に映ったのは、団扇を手にした佐名の姿だった。慎重な所作で、まるで壊れ物でも扱うかのように、拓真へ涼風を送っている。
「お目覚めですか?」
穏やかな声が、眠気に滲んだ意識にすっと染み込んだ。
「どうしたんです? なんで、こんなところに……?」
拓真は目をこすりながら、ゆっくりと身体を起こす。まだ夢の続きを引きずっているような感覚が残っていた。
「届いた組紐を選びに参ったのですが……内匠頭様が、お寝苦しそうにされていたので」
法華丸には、龍仙寺に関わるさまざまな物資が集まってくる。装備開発を担う佐名は、品の選別や検品のため、最近では頻繁にこの場所を訪れていた。
「……そっか。言われてみれば、佐名さんの方が法華丸にいること多いですよね」
「内匠頭様は、滅多に法華丸へお越しになりませんから。お見かけした時は、少し驚きました」
そう言って、佐名は控えめに微笑んだ。その笑みは、涼風と同じく、拓真の胸の内に静かに広がる。
「なんか、スイマセン。仕事の邪魔、しちゃいました?」
拓真はばつが悪そうに頭をかく。自分の無防備な寝顔を見られた気恥ずかしさも、そこに混じっていた。
「邪魔だなんて、とんでもありません。どうか、お気になさらずに」
「……スイマセン」
小さくそう呟きながら、拓真は胸の奥に残る、名状しがたい温もりを意識していた。雨上がりの涼風とは別の、穏やかな余韻が、確かにそこに残っていた。
同じ龍仙寺に身を置いていながら、佐名とは滅多に顔を合わせない。仮に会えたとしても、交わすのは決まって仕事の話ばかりだ。本音を言えば、聞きたいことも、話したいことも、胸の奥には山ほど溜まっている。
──今は、その稀な機会のはずだった。
不意に訪れた二人きりの時間。これ以上ない好機だというのに、いざとなると肝心の言葉が喉の奥で絡まり、形にならない。
「それで……どうです、最近?」
口をついて出たのは、我ながらあまりに曖昧な問いだった。
「はい?」
「いや、その……最近の調子というか……あ、そうだ。何か困ったこととか、ありませんか?」
「いいえ。皆様、よくして下さいますので。困ったことなど、何もございません」
即答だった。取り繕いのない穏やかな声に、かえって自分の問いの薄っぺらさが際立つ。
「そう……ですよね。つまんないこと聞いちゃって、スイマセン」
あまりに凡庸な切り口だったと、今さらのように後悔しつつ、拓真は癖のように頭をかいた。
その様子を見て、佐名は思わず吹き出しそうになる。慌てて袂で口元を押さえたが、肩がわずかに揺れた。
「いつも、そう……」
そこまで言ってから、佐名は一拍置き、呼吸を整える。
「内匠頭様は、いつもそうして詫びられます。詫びるようなことは、何もされておられぬのに」
武士は軽々しく謝らない。ましてや、よほどの大事でもなければ頭を下げることすら稀だ。そんな自尊心の塊のような武家社会に身を置きながら、拓真は「スイマセン」が己の沽券に関わるなど、微塵も考えていなかった。
「そんなに可笑しいですか? いや、まあクセみたいなもんで……本気で謝ってるっていうか……いや、申し訳ないなって気持ちもあるんですけど、その……挨拶みたいなもので……」
言い訳とも弁解ともつかぬ言葉を連ねながら、拓真は視線をさまよわせ、次の言葉を探す。
佐名はその姿を見つめ、しみじみと言った。
「誠に、風変わりなお方ですね。内匠頭様のようなお侍様は、見たことがありませぬ」
決して称賛ではない。だが、その口調には、確かな好意が滲んでいた。
「そう……ですかね? まあ、気を付けます」
何に気を付けるのか、なぜ気を付けるのか。自分でもよくわからない返答だった。その間の抜けた一言に、佐名は再び口元を押さえる。
(なんか変な感じだけど……まあ、笑ってくれたから、いっか)
伏見や佐和山にいた頃の佐名は、どこか影を帯びていた。それが龍仙寺に来てからは、見違えるほど変わった。表情は明るくなり、笑顔も増えた。ときには声を立てて笑いそうになり、慌てて背を丸めて堪えることさえある。
拓真は、そんな佐名の姿を垣間見るたび、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
──だが、それも、もう終わる。
関ヶ原の戦いがどのような結末を迎えようとも、この忙しくも穏やかな日々が再び戻ることはないだろう。
だからこそ、今この瞬間──佐名と二人きりでいられる時間が、二度と訪れないほど貴重なものに思えた。
その想いが胸を突き上げ、拓真は思わず口にした。
「…………あの」
拓真の声は、自分でも驚くほど小さい。雨上がりの湿り気を含んだ風が、開け放たれた窓から忍び込み、畳の匂いとともに静かに流れていく。
「はい?」
佐名は振り返り、穏やかな眼差しを向けた。その何気ない仕草が、胸の奥を締めつける。
「あの……もうすぐですね。戦が、始まります」
「……はい」
短く返されたその一言が、やけに重く響いた。避けようのない現実が、二人の間に横たわる。
「俺も……その戦に、行きます」
「……はい」
言葉を重ねるほど、覚悟が剥き出しになっていく。拓真は一度息を吸い込み、指先が震えるのを感じながら続けた。
「それで……その戦が終わった後で、いいんですけど……」
「……はい?」
わずかな戸惑いが声に滲む。その一音が、背中を押した。
「俺と……その……けっ、結婚、いやっ……一緒に!」
言葉が絡まり、心臓が喉元までせり上がる。
「俺と一緒になって、くれませんか?」
「──っ!」
佐名ははっと目を見開き、息を呑んだ。だが、その驚きはすぐに影を帯び、視線はゆっくりと床へ落ちていく。指先を握りしめたまま、肩がわずかに震えた。
「…………」
(うわ……言っちゃった……!)
頭の中で、後悔が一気に押し寄せる。
(なに舞い上がってんだ俺! こんな時に……このタイミングで……)
時間が凍りついたようだった。拓真は動けず、ただ佐名の背中を見つめるしかない。佐名は何も言わず、うつむいたまま、かすかに震えている。
(……マズかった、よな……)
胸の奥が、冷えていく。
(迷惑だったか……? いや……そうか。断るのが辛いから、言葉を探してるんだ……俺に気を遣って……)
「あ……あの、佐名さん……」
ようやく自分の感情をまとめ、声をかけようとした、その瞬間。
──ス、と。
背後の襖が、音もなく静かに開いた。
「かっ、勘兵衛さん!?」
思わず裏返った声が、静まり返った室内に弾けた。
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