賀津[4]
演習を終え、佐和山へ戻る左近の一行を見送っても、拓真の一日は終わらなかった。報告を整理し、指示を書き付け、気が付けば残っていた仕事は想像以上に多い。ようやく賀津の工房を訪れた頃には、山の稜線は闇に沈み、空には淡い月が浮かんでいた。
「……やっぱり、ここは眺めがいいな」
物見櫓の外縁に立ち、拓真は月を仰いで小さく呟いた。夜気を含んだ風が頬を撫で、昼の喧噪が嘘のように遠い。
「三階だからな。そんなことより、こっち見てくれよ」
賀津はぶっきらぼうに言い、作業台を指差す。地上の湿気を嫌って設けられたこの三階は、龍仙寺でも屈指の眺望を誇る場所だが、彼女にとっては風景よりも仕事の方がはるかに重要らしい。
「……なんだこれ。何が違うんだ?」
拓真は差し出された二本のこよりを受け取り、灯りに透かして見比べた。見た目はほとんど同じだが、どこか質感が異なる。
「手榴弾の導火線だよ。こっちが今までの、こっちが新しいヤツ」
銃に続く武装として、拓真は賀津と共に手榴弾の開発に踏み込んでいた。
「火の足が違うんだ。前のは二つか三つで燃え尽きたけど、こっちは五つか六つまで持つ」
「じゃあ、新しい方を使えばいいじゃないか。何か問題でもあるのか?」
手榴弾の起爆装置は、雷汞に衝撃を与えて着火する単純な構造だ。着火点の下に仕込まれた鉄管を、導火線の火が走り、最後に炸裂する。安全性を考えれば、起動から爆発まで最低でも五秒は欲しい。拓真の脳裏には、投擲してから兵が身を伏せるまでの僅かな猶予が、幾度も思い描かれていた。
賀津は火縄作りにも長けており、導火線の改良にも心血を注いでいる。
「これな……佐名サマから貰った天鵞絨の端布を使ってんだ。だから、そんなに数が作れねえ」
天鵞絨──南蛮貿易でしか手に入らぬ高級布だ。軍服の開発に際し、佐名のために多様な布地を揃えたが、天鵞絨は結局採用されず、残ったのは試料程度だった。
「たしか、天鵞絨は角倉が扱ってたな。いいよ。大炊さんに言って、要るだけ仕入れな」
角倉は南蛮貿易で名を馳せた京の豪商。そして大炊とは、輜重組を率いる樫原大炊介隆信のことだ。物資の調達と管理を一手に担う、縁の下の要である。
「やっぱタクミサマだと話が早くて助かるわ」
賀津は肩の力を抜き、苦笑混じりに言った。
「でも、それくらいなら、わざわざ俺を呼ばなくてもいいだろ。導火線のことは、お賀津に任せてるんだから」
「……うん、それはわかってる」
そう前置きしてから、賀津は言葉を切った。珍しく歯切れの悪い沈黙が落ちる。彼は視線を伏せ、しばし指先を弄んだ。
「来てもらったのは……他に、聞きてえことがあったからでさ」
月明かりが、その横顔を淡く照らす。逡巡と迷いが滲む表情を見て、拓真は自然と背筋を伸ばした。賀津が言い淀むとき、それは決して些細な話ではない──その予感が、胸の奥で静かにざわめいていた。
*
拓真が賀津と初めて顔を合わせた頃を思い返すと、いま目の前にいる彼女は、まるで別人のように見えた。
あの頃の賀津は、煤と泥にまみれた擦り切れた衣を身にまとい、帯の代わりに荒縄を腰に巻いていた。身なりを気にする余裕などなく、ただ生きるため、働くためにそこにいた──そんな印象が強い。だが今は違う。入浴の習慣が根付き、髪も肌も清潔さを保ち、身に着ける物も立場に相応しいものへと変わった。その変化は外見に留まらず、立ち居振る舞いの端々にまで滲んでいる。
無理もない。賀津は龍仙寺における火薬製造部門の責任者だ。三十名を超える職人たちを束ね、火薬と弾丸の製造工程を統括している。出来上がった弾丸はすべて彼女の検査を受け、基準に満たないものは容赦なく作り直しとなる。職人たちは年上ばかりだが、その多くは鍛冶職人の妻や娘で、作業場には女性の声が満ちている。日々そうした人々を率い、判断を下し続ける中で、自然と背筋が伸び、言葉の重みも変わっていったのだろう。
だが、それ以上に賀津を変えた存在がいる──拓真には、それが誰なのかはっきり分かっていた。
佐名が龍仙寺の住人となってからというもの、賀津は暇さえあれば彼女のもとへ足を運び、他愛もない話を持ち出しては、わざと大げさな身振りで笑わせている。賀津にとって、佐名のような女性は初めてだったのだ。落ち着いた物腰、洗練された所作、その佇まいの一つひとつに、無意識の憧憬を抱いているのが、傍目にも伝わってくる。
その影響か、口調こそ相変わらず粗野だが、顔立ちや仕草は次第に女性らしさを帯び始めていた。数えで十八。満年齢にすれば十六、あるいは十七。この時代であれば、すでに嫁いでいても何ら不思議ではない年頃だ。
余談になるが、当時の年齢の数え方は現代とは異なっていた。用いられていたのは数え年であり、零歳という概念は存在しない。人は生まれ落ちた瞬間に一歳とされ、その後は満年齢よりも一歳、場合によっては二歳ほど多く数えられることになる。
これは旧暦の仕組みに由来する。旧暦ではおよそ三年に一度の割合で閏月が挿入され、一年の日数が一定ではなかった。そのため年齢は誕生日を基準にするのではなく、正月──すなわち元日を迎えるごとに一斉に加算されたのである。
なお、この数え年の考え方は完全に廃れたわけではなく、現代においても厄年や享年を表す際などに、その名残を見ることができる。
*
「なんだよ、遠慮するなんて、らしくないな。聞きたいことがあるなら、ハッキリ言わなきゃ」
わざと軽く言ったつもりだったが、賀津の様子があまりに改まっていて、拓真は思わず笑いそうになった。いつもなら、もっとぶっきらぼうに切り出すはずだ。その歯切れの悪さが、かえって胸の奥に小さな引っかかりを残す。
「うん……あのな……タクミサマって……」
賀津は一度言葉を切り、視線を泳がせた。月明かりに照らされた横顔は、決心と迷いの狭間で揺れている。
「タクミサマって、佐名サマと……一緒になるのか?」
「……えっ?」
思わず声が裏返った。あまりに唐突で、言葉の意味を飲み込むまで一瞬の間が空く。
「なんだよ、いきなり。どうしてそんな話になるんだ?」
驚きと動揺がそのまま声に滲んだ。いくら賀津が以前より女性らしくなったとはいえ、拓真の中で彼女の印象は、煤と油にまみれながら火薬を扱っていた、あの頃のままどこかで止まっている。まさか、こんな踏み込んだ問いを投げかけてくるとは思ってもいなかった。
「どうしてって……はっきりした理由があるわけじゃねえけど……なんとなく、そう思って……」
言い終えた賀津の顔には、すでに後悔の色が浮かんでいた。口にしてしまった言葉を引っ込められないことに、今さら気づいたような表情だ。
(参ったな……)
拓真は内心で小さく息をついた。この話題を、まったく考えたことがなかったわけではない。むしろ、意識的に遠ざけてきた。
そもそも佐名を龍仙寺に招いた動機自体が、決して清廉なものではなかった。今はまだ、その答えを出す時ではない。だが、すべてが終わった暁には、彼女に対して自分なりの落とし前をつけなければならない——その覚悟だけは、心のどこかに沈めてある。
だからこそ、先のことを考えないようにしてきた。
佐名が龍仙寺に来てから十ヶ月。拓真は一貫して、彼女を“職人”として遇してきた。交わす言葉のほとんどは仕事の話で、二人きりになることも滅多にない。何より、息つく暇もないほどの忙しさが、余計な感情を抱く余地を奪っていた。
賀津と連れ立って佐名に会った回数も、指で数えられるほどだ。そのわずかなやり取りの中で、何かを感じ取られていたのだろうか。そう思った途端、胸の奥がむず痒くなり、気恥ずかしさが込み上げる。
しかし、この空気の中で冗談めかして誤魔化すこともできそうになかった。月明かりの下、真剣な眼差しを向けてくる賀津を前に、拓真は次に口にする言葉を慎重に選ばざるを得なかった。
「……ここだけの話だぞ。誰にも言うなよ」
拓真が声を潜めると、賀津は待っていましたと言わんばかりに、大げさなくらい何度も首を縦に振った。その真剣さがかえって可笑しくて、拓真は一瞬、視線を逸らす。
右の拳を口元に当て、小さく咳払いをひとつ。喉を整えるというより、心の準備をするための仕草だった。
「まあ……なんだ。いつかは、そうしたいと思ってる。……けどな」
「……けど?」
賀津が身を乗り出す。夜気に満ちた工房の空気が、わずかに張り詰めた。
「こればっかりはさ、佐名さんに『うん』って言ってもらえなきゃ、どうにもならない話だろ」
一拍の沈黙のあと、
「……ぷっ」
賀津は堪えきれず吹き出した。肩を震わせ、口元を押さえながらも笑いが止まらない。
「なんだよ、そんなに可笑しいか?」
「違うって。可笑しくねえよ。ただ……ちょっと安心しただけだ。佐名サマが、可哀想だったから」
その言葉に、拓真はわずかに眉を寄せた。
拓真ほどの立場にあれば、勘兵衛と話を付けるだけで縁組など容易い。にもかかわらず、彼は佐名の気持ちを案じ、返事を待つという選択をしている。男が女の意思をここまで尊重するなど、この時代ではむしろ異端だ。それでも賀津には、それが拓真らしさであり、誇るべき美点に思えた。
男所帯で育った賀津にとって、佐名は憧れそのものだ。些細な用事を口実に何度も顔を出しては、他愛ない話で笑わせる。佐名はいつも嫌な顔ひとつせず応じてくれ、今ではすっかり打ち解けた間柄だ。
だが、時折ふと浮かべる、あの寂しげな表情。
その理由を、賀津はずっと考えていた。
縁談を壊してまで龍仙寺に招かれたというのに、拓真は滅多に佐名のもとを訪れない。来ても仕事の話ばかりで、どこか距離を置いているように見える。もし、縫製の腕だけが必要なのだとしたら——兄に逆らい、すべてを捨ててきた佐名が、あまりにも報われない。
拓真が冷たい人間でないことは、誰よりも賀津が知っている。だからこそ、その態度が不可解で、問いただす勇気も持てずにいた。もし真意を聞いて、佐名が傷つく答えだったら——そう思うと、口を開けなかった。
「可哀想って……佐名さん、何か言ってたのか?」
「何も言わねえよ。俺が勝手にそう思っただけだ。でもさ、タクミサマがそう思ってんなら、もうちっと優しくしてやってくれよ」
「えっ? 俺、優しくないか?」
「……そこが駄目なんだって」
賀津は肩をすくめ、すぐに悪戯っぽく笑った。
「でさ、その『いつか』って、いつなんだ?」
先ほどまでの重苦しさは消え、安堵がそのまま笑顔になっている。
「いつか、か……仕事が一段落してからだな。そんなに先じゃないよ。だから、それまでは内緒だぞ」
そう言って、拓真は人差し指を立てる。
「わかってる。誰にも言わねえ」
佐名がこの想いを知れば、きっとあの寂しげな表情は消えるだろう。その未来を思い浮かべるだけで、胸の奥に小さな疼きは残りつつも、賀津の心は温かいもので満たされた。
用件を終え、階段を降りかけた拓真の背に、賀津が声をかける。
「タクミサマ!」
「どうした?」
「佐名サマのことは心配いらねえ。きっと上手くいくよ。……それでもし駄目だったら、その時は俺がタクミサマの嫁になってやる!」
冗談とも本気ともつかないその言葉に、拓真は振り返って柔らかく微笑み、何も言わずに階段を下っていった。
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