下策[2]
「次は……いよいよ上杉らしい」
兼続はそう言って、どこか乾いた息を吐いた。その口ぶりは、まるで避けようのない当番が巡ってきたかのようで、覚悟と諦観とが奇妙に入り混じっていた。
一年前に予測した筋書き通り、事態は寸分違わず進んでいる。家康という男が、次に触手を伸ばす先──それが上杉家であることは、兼続にとって驚くべきことではなかった。むしろ、ここまで遅れたことの方が意外なくらいだった。
「中納言様(上杉景勝)は、如何にお考えなのだ?」
三成の問いは静かだったが、その奥には切迫した緊張が滲んでいる。
「わからん」
兼続は即答した。そのまま湯飲みに残った茶を一息に飲み干す。すでに冷え切った茶の苦みが喉を灼くように落ちていったが、顔色一つ変えなかった。
「治部殿も知っておろう」
兼続は低く続ける。
「我が殿は、語るを好まれぬ御方だ。殿にとって何より大切なのは、御家の祭祀を絶やさぬこと。それは揺るがぬ。されど──」
言葉を切り、兼続は一瞬、灯明の揺れる炎を見つめた。
「内府の専横を看過することは、大義に背く。不識院様(上杉謙信)から受け継いだものは、御家と大義、いずれも掌中の珠。そのどちらを失っても、上杉は上杉ではなくなる。殿は今も、その狭間で御心を砕いておられる」
「御家と、大義か……」
三成は小さく呟いた。重く沈んだ声には、答えがすでに見えている響きがあった。
「どちらも捨てぬ道は──一つしかあるまい」
「おうよ」
兼続は短く笑い、頷いた。
「だからこそ、儂は波頭を越えた。ここに来た理由は、それ一つじゃ」
夜は深まり、行灯の油は尽きかけていた。静まり返った屋敷に、時折、外を渡る風の音だけが忍び込む。その闇の底で、二人は言葉を尽くし、沈黙を挟み、また言葉を重ねた。
やがて夜明け前、白み始めた空の気配とともに、三成と兼続による「下策」の段取りは固まった。
*
翌朝。
薄靄の立つ湖面に朝の光が滲み始める頃、三成は船着き場に立ち、佐渡へ戻る兼続を見送っていた。兼続が佐和山に足を踏み入れてから、まだ一日も経っていない。まさしく蜻蛉返り──痕跡を残さぬための、張り詰めた隠密行である。
水際に繋がれた船は、すでに櫂を入れればいつでも離れられる構えだった。湖面を渡る冷えた風が衣の裾を揺らし、夜を徹して語り合った疲労を、否応なく現実へと引き戻す。
「治部殿」
兼続は晴れやかな声を作り、しかしその眼差しだけは鋼のように硬かった。
「北は万事、それがしにお任せあれ!」
「城州殿」
三成もまた、胸を張って応える。
「儂は必ず畿内を押さえる。次は──関八州の何処かで見えましょうぞ!」
二人は桟橋の上で向き合い、互いの手を強く握り合った。指に伝わる体温は短く、だが確かな信頼の証だった。
その瞬間──兼続は不意に三成を引き寄せ、誰にも聞かれぬよう耳元へ顔を寄せる。
「佐吉……今ならば、まだ……間に合うぞ」
低く、切実な声だった。
この時点なら、まだ「下策」を止めることができる。ここから一歩を踏み出せば、後戻りはできない。その言葉が、理ではなく、友としての心から絞り出された忠告であることを、三成は痛いほど理解していた。
だからこそ、三成は何も言わず、そっと瞼を閉じた。湖風が頬を撫で、胸の奥で決意が静かに形を取る。やがて、ゆっくりと、噛みしめるように言葉を唱え始めた。
「運は天にあり。
鎧は胸にあり。
手柄は足にあり。
何時も敵を掌にして合戦すべし。
疵つくことなし。
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」
三成の口から紡がれたのは、上杉謙信が春日山城の壁に記した戦陣訓。合戦に臨む武士の覚悟を示す、厳しくも潔い言葉だった。
その教えを、誰よりも深く胸に刻んでいるのは、他ならぬ兼続である。謙信に薫陶を受け、弟子のように仕えた彼にとって、この言葉は剣にも等しい重みを持っていた。
三成の決意が、もはや揺るがぬものであると悟り、兼続は静かに息を整える。そして、その先を引き継ぐように、低く、しかし確かな声で続けた。
「家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。
帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。
不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。
必ず一定と思うべし」
それは、武士たる者、神仏にではなく、己が定めた道にこそ命運を賭けよ──そう説く最後の一節であった。
「与六」
三成は、兼続の真名を呼んだ。その声には、迷いはない。
「賊が天下を盗もうとしている。そして、皆がそれに目を瞑っている。このまま、奴の好きにさせて良いのか? 誰かが異を唱えねば、日本の義は死んでしまう」
湖面に射し込む朝日が、二人の影を長く引き延ばす。
兼続は答えを口にしなかった。ただ、小さく、しかしはっきりと頷く。
それで十分だった。
船はやがて岸を離れ、静かな水音を残して霧の向こうへと消えていく。
三成はその背を見送りながら、もはや戻らぬ道を、ただ真っ直ぐに見据えていた。
*
松原湖を渡る船は、朝の水面を切り裂くように進んでいた。櫂の立てる規則正しい水音が、張り詰めた胸の内を逆に際立たせる。船上に立つ兼続は、前を見ることもせず、ただ視線の先にある佐和山を見つめ続けていた。
城山は、刻一刻と小さくなっていく。
霧をまとった山影はやがて湖岸の線と溶け合い、まるで最初からそこに存在しなかったかのように遠ざかっていった。その光景は、先ほどまで交わした言葉や決意までも、湖に置き去りにしていくようで、兼続は思わず唇を動かした。
「武士たる道は不定と思うべからず。必ず一定と思うべし……か」
風に紛れるほどの小さな呟きだった。
まさか、あの言葉を三成の口から聞くことになるとは思いもしなかった。あれは武将のための訓ではない。勝敗や領国を量るための処世ではなく、命の在り処を定めるための、純然たる武士の道だ。
だが三成は、損得も勝算も承知の上で、その道を選ぼうとしていた。己が身を犠牲にしてでも、大義を貫くために。
兼続は、これまで自分が三成に劣るなどと考えたことは一度もない。知略も覚悟も、肩を並べているという自負があった。
しかし今は違う。
三成の志は、鋭く、そして凄烈だった。触れれば血を流すと分かっていても、なお掴まずにはいられないほどに。
胸の奥に、心地よい敗北感が広がる。
同時に、ほんの一瞬でも「翻意してくれれば」と願ってしまった自分の弱さが、じくりと疼いた。その浅ましさが、ひどく恥ずかしかった。
──この男と共に行くのなら。
たとえ行き着く先が地獄であろうとも、不識院様はきっと諒とされるだろう。
兼続は深く息を吸い、湖上に吹く冷たい風を胸いっぱいに取り込んだ。揺れる船上で姿勢を正し、静かに唇を結ぶ。
「この仕事……我が身命を賭して、果たさねばなるまい」
そう呟くと、かつて上杉謙信が合戦の前に必ず唱えた言葉を、心の底から紡ぎ出す。
「──オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」
毘沙門天の真言。
兼続は目を閉じ、天を仰ぐように祈った。
この身、この命、この知略のすべてを賭して、家康を打ち倒す──その誓いを、湖上の空と、戦神とに捧げながら。
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