望日[1]
目の前に、彼女がいる。ほんの数歩先、手を伸ばせば触れられるのに、足は岩のように沈み込み、一歩も前へ進まない。胸の奥から焦りが込み上げ、喉が裂けそうなほど力を込めて叫ぶ。
「待っ……て、待っ……!」
その声が届くより先に、視界が闇に溶けた。
──拓真は跳ねるように目を覚ます。
伸ばしていた手は虚空を掴み、そこにあるのは見知らぬ天井。総檜造りの格天井が、淡い光を受けてほのかに黄金色に輝いている。鼻先には檜の香がふわりと漂い、夢の残滓を押し流すように沁み込んだ。
「……なに、ここ?」
思考がまだ水底に沈んだままのようで、浮かんだ言葉も頼りない。しばらく天井をぼんやり眺める。妙に新しく、妙に静かで────妙に違和感がある。
「……照明が……ない?」
格式の高い日本間でも、どこかに電灯くらいはあるはずだ。だが見回すかぎり、電球の影すらない。拓真はゆっくり布団から身を起こし、周囲をひとつひとつ確かめる。
「本当に……どこだよ、ここ」
白い漆喰の壁。竹林に遊ぶ虎が描かれた襖。見事な彫刻が施された欄間。どれも新品同然で、出張で泊まり慣れた安宿とは場違いなほど格が違う。しかし、観察すればするほど違和感が積み重なった。
電話もテレビも時計もない。カレンダーも、照明も、そしてコンセントすら見当たらない。防火設備さえ影も形もない。部屋にあるのは、寝かされていた布団と竹製の葛籠ひとつ、額に置かれていた手拭い、そして水の張られた木桶だけ。
──この部屋には現代文明の痕跡が、ひとつもない。
「……とりあえず、水……」
目覚めと同時に乾ききっていた喉が悲鳴を上げる。拓真は無意識のまま木桶を手に取り、口をつけて一気に傾けた。
「んっ……んっ……っ……」
冷たい水が喉を滑り落ちていく。口の端からこぼれても構わず、胃に落ちていく感覚をひたすら貪った。
「……っ、ふぅ……」
ようやく息を吐き、袖で濡れた口元を拭おうとして──さらに異変に気付いた。
「……白装束?」
胸元を撫でながら、記憶を手繰る。そこには黒い壁のように空白がある。だが、その奥底でひとつだけ鮮明な光景が浮かび上がった。
「……そうだ。津波……!」
右手を見つめる。
「あの子……『アイ』って言ったよな」
あの小さな手を掴んで──そこまでは覚えている。その先は、激しい轟音と濁流に呑まれ、断ち切られていた。
「そのあと……俺は……?」
脳裏に、一つの結論がよぎる。
「……ひょっとして俺、死んだのか?」
オカルト記事を書いていた経験はあるが、死後の世界を信じているわけではない。だが、現実離れしたこの空間は、否応なく想像を刺激した。
死んだことがない以上、死後がどういうものかなんて分かるはずもない。案外、本当にこんなふうに世界が切り替わるのかもしれない──そんな弱気な思考が胸をかすめたが──。
「……んなわけあるかよ!」
拓真は思わず、声を張り上げた。
耳を澄ませば、障子越しに柔らかな日差し。外からは鳥のさえずり、木々を揺らす涼やかな風の音。湿り気のある土と木の匂いが、微かに漂っている。
──少なくとも、ここが“死後の世界”には思えなかった。
「……とりあえず、外に出るか」
布団の上で考えを巡らせても、答えはひとつも出ない。まずは現状を把握しろ──記者として染みついた習性が、眠気の残る頭を小突く。拓真は覚悟を決め、布団を押して上半身を起こした……が、すぐに顔をしかめた。
腰に力が入らない。足を動かそうとすると、鋭い痛みが脛から太腿へ一気に走った。
「うっ……」
ぐっと歯が食いしばられた。身体が自分の意思に反抗する。昨日──いや、あの地獄の中で走り回った記憶が、嫌でも甦る。
いきなり全力疾走なんて、何年ぶりだったか。運動不足? その通りだ。でも、もはや後悔しても遅い。
「ふーっ……身体、バッキバキだな……」
呻くような声が漏れた。痛みのひとつひとつが、あの津波が夢でも幻でもなく“現実だった”ことを物理的に突きつけてくる。死地から生還した証拠が、筋肉痛という形で刻まれているのが妙に生々しい。
「あ……っ、た……っ……」
身体をひねり、ずるずると四つん這いになった。情けない体勢だが、これならどうにか動ける。畳に両手をつき、息を整え、明るい方──障子へ向かって、慎重に身体を回転させる。
その瞬間だった。
すっ。
まるで風に押されたかのように、目の前の障子が音もなく横へ滑った。
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