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Last resort  作者: 蒼了一


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薬室[3]

 猪口を指先で軽く回しながら、拓真はつい先程通り抜けた、佐和山の城下町を思い返していた。日が暮れ、宵闇がしっとりと降り始めた街には、いつもより多くの灯が揺れている。屋台の呼び声、酒場から漏れる笑い声、往来を行き交う人影──どこか浮き足立った空気が、夜気の中にふわりと漂っていた。


「ずいぶん佐和山の様子が変わりましたね。なんか賑やかというか」


 盃を口に運び、ふと漏れた言葉に、向かいの勘兵衛が唇の端を上げる。彼の屋敷はもう拓真の定宿同然になっており、今日も仕事を終えたあと、二人は気安い晩酌を始めていた。


「殿がお帰りになったからでござろう。伏見と大坂に詰めておられた方々も一斉に引き揚げましたからな。これからしばらくは騒がしくなりそうですな」


 勘兵衛は徳利を軽く振り、拓真の猪口にとくりと酒を注ぐ。その仕草を眺めながら、拓真の脳裏には昼間、城で耳にした話がよぎる。


(そういえば……殿が奉行を辞されたって話、城で言ってたよな。今日は閏三月十五日。史実通り進んでるってことは……)


 胸の奥に、ひやりとした予感の風が走った。


「内府様が伏見城に移られたそうですね」


 静かに落とした言葉に、勘兵衛の手がわずかに止まった。


「ああ……内匠殿も耳にされたか。一昨日のことだそうですな。しかし、殿が奉行を退かれたとはいえ、内府様がいきなりそのような挙に出るとは……拙者には、にわかには信じがたいことで」


 勘兵衛の眉間には、酒の席には不釣り合いな緊張の影が差していた。


(家康……史実通りに動いた。ってことか)


 卓上の燭が、ふたりの間で揺らめきながら小さな影を壁に描き続けていた。外ではまだ町のざわめきが残っているが、この一室だけは妙に静かで、空気が少しだけ重い。勘兵衛が語る家康の動きは、その静けさにじわじわと圧を加えていく。


 閏三月十日、三成が伏見を退去した──その報せが届いたのはつい数日前のことだ。だが、続く家康の行動はさらに驚くべきものだった。たった三日後、伏見城へ居を移し、実質的な城主として居座ったのである。


 本来、伏見城は秀吉の遺命によって五奉行の前田玄以と長束正家が留守居を務めるはずだった。家康はその役目を“奪う”ようにして強引に入城した。


「まったく……殿が退かれるや否や、こうまで露骨とは」


 勘兵衛は徳利を置き、肩をすくめた。呆れと怒りと、そして微かな恐れが入り混じった声だった。


(……いや、そういう人なんだよなぁ家康って。これくらいで驚いてたら、この先もっと大変だよ、勘兵衛さん。──ってか、一昨日ってことは十三日入城か。日付も今のところドンピシャで来てるな)


 拓真は盃の縁を指でなぞりながら、胸の奥にざわつくものを抱えたまま考えを巡らせた。


 彼は自分の記憶を頼りに、密かに「関ヶ原までの年表」を書き起こしている。その年表によれば──。


 前田利家の死が閏三月三日。


 その同日に七将襲撃事件。


 そして十三日に家康の伏見入城。


 すべてが記憶通りに動いている。小さなずれも、いまのところない。


 ここまでは“予定通り”。だが、この先はしばらく嵐の前の静けさだ。


 次に表立った事件が起こるのは、家康の大坂城入城と、その直後に発覚する家康暗殺計画──日付は九月七日。


(この流れが変わらないなら……やっぱり来年、来るんだよな。関ヶ原が)


 盃を傾けても、口に広がる酒の甘みがまったく心に落ちてこない。


 蝋燭の影の揺らぎが妙に速く見えるのは、胸に湧き始めた不安が灯の揺れを誤魔化してくれないからだった。


「まあ、そのうち天罰が下りますよ。たぶん……」


 拓真がぼそりと漏らすと、勘兵衛は勢いよく杯を掲げた。


「そのための龍仙寺ですからな! 内府にはいずれ目に物を見せてくれましょうぞ!」


 ふだんは慎重な勘兵衛が、酒気のせいか珍しく大言壮語をぶち上げている。盃の酒がわずかに揺れ、畳に落ちた灯の影もいっそう大きく揺れた。


「ところで内匠殿、雷振筒の進み具合は如何か?」


「あー……それが、なかなか苦戦してまして──」


 説明しかけたその時、襖の向こうから控えめな声が届いた。


「ご酒肴をお持ちしました」


 その声音だけで胸が跳ねる。


 襖が静かに開き、盆を抱えた佐名が姿を見せた。


 薄桃色の小袖に袖口だけ薄く差し色が入り、灯の明かりが布越しに柔らかく反射する。久しぶりに見るその姿に、拓真はほんの一瞬、息をのみ込んだ。


(……佐名さん。そうか、石田家が引き上げたんだから、佐和山にいるのは当然か……でもなんで勘兵衛さんの屋敷に……?)


 彼女と顔を合わせる機会は八ヶ月の間に何度かあった。


 大坂、堺、京──機材の買い付けや商人との交渉におもむくときは、必ず治部少丸を拠点にする。そのたびに佐名と顔を合わせた。


 数度の会話もした。笑顔も見た。


 けれど距離は縮まらない。いや、縮めてはいけないと自らに言い聞かせてきた。


 ──彼女は……人妻だ。俺が踏み込んじゃいけない場所だ。


 そう頭では理解しているはずなのに、佐名が盆を置くときにわずかにかがむ、その横顔を見るたび、胸の奥で何かが静かにきしむ。


 襖から差し込む夜風が佐名の髪先をそっと揺らした。


 そのたびにかすかに香るほのかな匂い──かつて治部少丸で感じたものと同じで、懐かしさが胸を刺す。


 ──駄目だな俺って……。本当に駄目なんだよ! 彼女だけは……。


 佐名が一礼すると、頬に落ちた灯の光がふわりと揺れ、その一瞬だけ距離が近く感じられる。


 拓真は、盃を握る指先にほんの少し余計な力がこもるのを止められなかった。


「お、お久しぶりです。お元気でしたか?」


 声をかけた瞬間、自分でも驚くほど声が上ずっていた。


 対する佐名は、膝をそろえてすっと頭を下げる。その所作は静かで澄んでいて、まるで揺るがない水面のようだ。


「ご無沙汰しております。お陰様で(つつが)なく過ごしております。内匠頭様も息災なご様子で何よりでございます」


 その言葉は落ち着いているのに、唇の端がほんのわずか、花びらのように持ち上がっている。


 久方ぶりの再会を喜ばれている──そう思ってしまいそうな、淡い綻びだった。


「今は何してんです? なんでこのお屋敷に?」


 問いかけると、佐名は視線を少し伏せながら答えた。


「はい。ここが里ですので」


「え、たしか結婚、いや、嫁ぎ先は……」


 拓真は口にしてから後悔した。女性の身の上に軽々しく触れるのは不躾すぎる。


 だが、治部少丸で彼女が侍女として働いている姿を見るたび、ずっと胸に引っかかっていた疑問だった。


 本来なら武家の妻女が、たとえ主家とはいえ、侍女の仕事などするはずがないからだ。


 その沈黙を埋めるように、勘兵衛が酒盃を置いて言った。


「内匠殿。コレは出戻りでしてな。お恥ずかしながら、ちと訳ありで里に居ります」


「兄上様……」


 柔らかな眉がわずかに吊り上がる。


 佐名は、兄の不用意な言い方にほとほと呆れたように見えた。


(出戻り……ってことは、バツ一か。なるほど、そうか、そういうことだったのか)


 この瞬間についさっきまで胸のどこかに刺さっていた違和感や疑問が、一気にほどけた。


 嫁ぎ先から戻され、身の置き場を失った佐名が治部少丸で侍女として働いていた──それは自然な流れだったのだ。


 そして何より、得体の知れない男の世話を任された理由も、ようやく腑に落ちた。


 あれは、普通なら嫁入り前の娘には絶対にさせない役目だ。


 だが、出戻りである彼女なら……石田家としても気兼ねなく遣わせられたのだ。


 そう考えた途端、いたたまれない複雑さと、どこかほっとしてしまった自分への後ろめたさが、胸の中でせめぎ合った。


 しかし胸の奥が軽くなるのを、拓真は否応なく感じてしまった。


「それで、これからどうされるんですか?」


 つい、気安く口にしてしまった。


 だがその瞬間、佐名の睫毛がふるりと揺れる。返答に迷っているのが、表情にほんの影のように差した。


「さて……私には、先のことなど……」


 その言葉はかすかに頼りなく、しかし静かだった。


 佐名は、これまで自分で道を選んだことがない。


 嫁いだ時も、里に戻された時も、治部少丸で侍女を務めていた時も──すべて他人が決めたことだ。


 武家の娘にとって、それは特別なことではない。主体性を持つ、持たないの話ではなく、そういう時代だった。


 だからこそ、拓真の「これからどうする?」は、あまりにも答えづらい問いだった。


 佐名はかすかに視線を揺らし、膝の上で結んだ指をそっと強く握る。


 その小さな仕草が、彼女の胸の内の戸惑いを雄弁に語っていた。


「そういえば志田殿からいただいた樽があったろう。あれを持って参れ」


 勘兵衛は、困惑した表情を浮かべる妹の視線をあえて無視するように、強引に話を切り替えた。この堅物も堅物なりに、今のやり取りを断つべきだと考えたのであろう。


「はい」


 佐名は静かに膝をそろえて頭を下げると、音を立てぬように襖を滑らせて部屋を出ていった。その後ろ姿が消えていくまでの短いあいだ、拓真は自分でも理由のつかない寂しさを感じていた。


 膳には、佐名が運んできた野菜の煮付けが湯気をほのかに揺らしながら置かれている。出汁の香りがふわりと鼻をくすぐり、しんと静まった瞬間に温かさだけが残った。


「それで内匠殿、雷振筒は捗々しくないのでござるか?」


 再び勘兵衛が口を開く。声には酔いのゆらぎがあるものの、その眼差しは真剣さを失っていない。


 勘兵衛にとって拓真は、ただの客ではなく、石田家を救う切り札だ──そう信じて疑っていない。その男が難航していると言うのだ。妹の将来よりも、雷振筒の進捗こそが今もっとも気にかかるといった様子だった。


 拓真はふと、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


「ええ、まあ……いろいろ課題があって……それでも何とか……」


 拓真の返事はどこか上の空で、声の端がかすかに揺れていた。湯気の立つ煮付けに箸を伸ばしながらも、思考は別の場所をさまよっているらしい。そして箸先が根菜をつまんだ。その瞬間だった。


「あっ──!」


 乾いた声が漏れ、勘兵衛が眉を寄せる。


「如何された?」


「いえ、ちょっと……」


 拓真は慌てて言葉を濁しながらも、箸先を凝視した。


「そうか……これだ。これがあった……なんで今まで気付かなかったんだろ?」


「内匠殿?」


 半信半疑の声を向ける勘兵衛に、拓真は視線を上げ、少年のような表情で笑った。


「いや、今いいことを思い出したんです。コレのお陰で」


 そう言いながら蓮根をぽりりとかじる。歯触りの軽い音が静かな部屋に弾む。胸の奥で何かがはっきり形を成したらしく、さっきまでの曇った気配は跡形もない。


 突然晴れやかになった拓真の顔を見ながら、勘兵衛は「まったく、このお方は何を思いついたのか……」と呟きたくなる衝動を必死に飲み込んだ。ただその横顔を、不思議そうに、しかしどこか嬉しげに見つめていた。

読んでくださり、本当にありがとうございます!


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