追放[2]
家康が方針を決めた翌朝の伏見は、薄曇りの空が城下に淡い影を落としていた。城の回廊を吹き抜ける風には、冬の名残がまだ色濃く残っている。その冷気は、これから交わされる密談の気配と混じり合い、どこか不吉な予兆を帯びていた。
本多正信は下拵えの第一歩として、伏見城に出仕してきた黒田甲斐守長政を自らの詰所へ招き入れた。
部屋は狭く、火鉢の赤だけが頼りなく揺れている。外の冷たさがまだ襖の隙間から染み込んでおり、二人の影はやけに濃く映っていた。
長政が腰を下ろすと、正信は時候の挨拶もほとんど省き、いきなり核心へ踏み込んだ。
「甲州殿、お願いされていた治部殿懲罰の件ですがな……上様がお力になれぬと」
「な、なにゆえ内府様は我らに御助勢下さらぬのですか!」
長政の声は、抑えきれない驚きと焦りが混じって震えていた。火鉢の火がその声に驚いたように、ぱちりと音を立てる。
「まあそうお怒りなさらずに。それがしの話を最後までお聞き下され」
正信は両手を軽く振り、なだめるように言った。だがその目だけは笑っていない。むしろ、長政の反応を楽しむような光を宿していた。
「尾張衆の申し立ては至極もっとも。お気持ちは上様も同じでござる。されど、治部殿と事を構えれば、騒ぎが大きくなりまする。二位様のことを思えば御政道を乱すのはよろしからず、と……」
正信の声は柔らかいが、その裏に隠れた意図は鋭い刃のようだった。
「なれど、そこはなにとぞ内府様の御威光を──」
「公事(裁判)となれば双方の言い分を聞かねばなりませぬ。相手が治部殿とあれば、一筋縄には、とても、とても……」
そう言って正信は、わざとらしく肩をすくめ、大げさに右手を振った。
「かと言って、上様が力で押さえつければ、向こうも黙ってはおりますまい。安芸中納言様(毛利輝元)や会津中納言様(上杉景勝)らと語らって何を仕出かすやら……下手をすれば大乱の火種にもなりましょう」
その言葉に、長政は息を呑んだ。
正信が描き出す未来図は、どれもが最悪で、しかしどれもが現実味を帯びている。
「誠に佐渡殿のおっしゃるとおりですが……それでは……我らの面目が……」
困惑と焦燥が入り混じり、長政の声はか細く震えていた。武人としての矜持と、情勢を読む目と、その狭間で心が大きく揺れている。
正信はその揺らぎを把握しながら、火鉢の灰を火箸でゆっくりとかき回した。
灰がくすぶり、淡い煙が立ち上る。その煙が、まるで罠の糸のように長政の心に絡みつく。
「太閤殿下から御政道をお預かりした上様に筋違いの言いがかりをつけ、二位様を住み慣れた伏見から引きはがす……。このごろの治部殿の振る舞いは、豊家をないがしろにしていると言われても仕方ありますまい」
火箸を灰に突き立て、正信は長政をじっと見据えた。
「このままでは、いずれ心ある者が治部殿に害を及ぼさぬか……と、上様は気を揉んでおられる」
その一言が落ちた瞬間、長政の背に冷たいものが走った。
息をのみ、喉がかすれる。
「そ、それは……治部が害される、と……?」
長政の問いなど意に介さず、正信は語りを続けた。むしろ、世間話でも続けるかのような自然さで。
「もし万一そのようなことがあっても……それは豊家を思うゆえのこと。そのような忠義の者を厳しく罰するなど、到底できぬ──と、上様は申しておられた」
火鉢の赤い光が、長政の顔を照らし出す。
その表情に浮かんだ戦慄は、戦場の死線ですら見せたことのない種類のものだった。
(……やはり恐るべきお方だ。いずれ内府様は必ずや天下をお手になさる)
正信の言葉は、形式こそ婉曲しているが、「三成を殺してしまえ」と指示したに等しい。
しかも、実行者には罰を下さぬという保証付きで。
泰平に慣れ、刀の錆びつきつつある時代に、こんな物騒な策を平然と口にする男──。
長政は恐怖と同時に、底知れぬ畏敬を覚えずにはいられなかった。
「もっとも、治部殿には島左近や舞兵庫ら、音に聞こえた剛の者がついておる。生半な者に討たれるような不覚は取りますまいがな」
正信はわざと心配げに付け加えた。その声音は優しげだが、言葉の刃は長政をさらに追いつめる。
ここまで言われれば、尾張衆を引きずり込んだ張本人として腹を括るしかない。
長政は膝に置いた拳を固く握りしめ、声を絞り出した。
「佐渡殿……内府様にお伝え下され。──豊家に忠義な者は、存外おります。と」
正信は穏やかにうなずき、火鉢の赤がその目に妖しく反射した。
外では冬の風が、まるでこれから起こる騒乱を予言するように、城の破風を低く唸らせていた。
*
黒田屋敷の広間には、夕闇がゆっくりとしみ込み始めていた。外では風が庭木を揺らし、まだ冬の気配を残す冷気が障子越しに伝わってくる。
その薄寒さとは別に、室内には武将たちの体温と、張りつめた空気が濃密に渦を巻いていた。
集まったのは、いずれも豊臣家を支えてきた歴戦の猛者たち──加藤清正、福島正則、加藤嘉明、池田輝政、浅野幸長、長岡忠興。そして黒田長政を合わせて七名。
彼らの前には、酒も肴も置かれていない。今日の集まりが、ただならぬ事のためであることは誰の目にも明らかだった。
長政が家康の密命──いや、暗黙に了承された“処断”の意を伝え終えると、重い沈黙が広間に落ちた。
その沈黙を破ったのは、加藤嘉明だった。
「……それで、殺るのは何時だ?」
低く、鋭く、刃が鞘から半ば抜けたような声だった。
灯明の炎が、嘉明の険しい横顔をゆらゆらと照らし、影が床に落ちる。
長政は一瞬口をつぐみ、深く息を整えてから応じた。
「明日にでも、と申し上げたきところですが──拙速は禁物と申します。それに……」
その先を言い出すのに迷うように、視線がわずかに揺れる。
七名の視線が長政に集まる。重圧が肩にのしかかった。
「……この件、できれば加賀様(前田利家)のお耳には入れとうござらん」
その名が出た途端、場の空気がさらに重く沈んだ。
誰もが利家の顔を思い浮かべ、そして黙って頷いた。
豊臣政権が揺らぐたび、真っ先にその軋みを食い止めようと奔走してきたのが利家だ。
秀吉亡きあと対立の深まる尾張衆と近江衆──その仲を取り持とうと、利家がどれほど心血を注いできたか、ここにいる者たちは皆よく知っている。
三成を討つという決断は、その努力を完全に踏みにじる。
ましてや秀頼がいる大坂城下で事を構えれば、これは反逆以外の何物でもない。
利家がこの話を知れば、激怒どころでは済まないだろう。
だが──利家は今、病床にあり、命の炎が消えかけている。
長政は小さく息を吐き、一同を見渡した。
「……ゆえに、“加賀様に知られずに済む日”──それが、治部を討つ時と心得くだされ」
その意味はすぐに全員が理解した。
重苦しい沈黙が、さらに深く長く屋敷を包む。
外では、不吉なほど冷たい風が庭の竹林をざわめかせていた。
七名の武将たちは、その音を黙って聞きながら、それぞれ胸の奥に決意と後戻りできぬ重さを刻み込んでいた。
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