上策[3]
兼続がぽつりと切り出したのは、炉から立ちのぼる薄い白煙がふたりの間をやわらかく揺らしていた時だった。
「金ヶ崎の退き口を覚えているか」
三成は盃から視線を上げ、わずかに目を細めた。
「もちろんじゃ。儂はまだ童であったが……あの話はよう覚えておる」
淡い記憶の底から、泥にまみれた兵の叫びと太鼓の音がよみがえる。
金ヶ崎の退き口──戦国史でも屈指の退却戦。
元亀元年、織田信長と徳川家康の三万が朝倉領に攻め入った時、浅井長政の裏切りにより前後から挟撃され、連合軍は地獄の谷間に追い込まれた。
その最中、信長は少数の近習だけを連れ、いち早く戦場を離脱した。
家臣を見捨てたと見られかねぬ行為だが──あれこそが勝者の資質だった。
主さえ生きていれば、軍勢はまた立ち上がる。あの判断が、織田信長の冷徹な天才を今に伝える所以でもある。
「もし治部殿があの場におったら、同じことができたか?」
兼続の問いは静かだったが、その中に試すような色が潜んでいた。
三成は腕を組み、天井の煤汚れへと視線を漂わせた。
「……無理だな。儂には総見院様(織田信長)の真似はできぬ」
口にしてみて、胸の奥がずしりと重くなる。
いくら正しいと分かっていても、三成には家臣を即座に見捨てる胆力はない。肉親に対するのと同じように、家臣の命が胸を締めつけてしまうからだった。
「儂にも無理だ。同じだよ。多くの将が、同じ答えを出すだろう」
「だろうな……」
兼続は盃を置き、わずかに身を乗り出した。
「では──内府はどうかな? 金ヶ崎で置き去りにされたあの男は」
「?」
三成は目を瞬き、わずかに眉間を寄せた。
兼続はその反応を楽しむように、側に置かれた饅頭をひとつつまみ、畳の上に置いた。
「これが会津上杉家」
さらに、もう一つの饅頭を拾い上げ、少し離れた場所に置く。
「これが内府。内府が会津に難癖をつけ、兵を挙げて東海道を下る」
兼続の指が、内府の饅頭をゆっくりと動かし始める。
その軌跡を追う三成の瞳が鋭くなる。
「そこで──」
三つ目の饅頭が兼続の手に掴まれた。
それを、内府のいた位置へそっと置く。
「虚になった畿内で、治部殿が兵を挙げる」
兼続は治部殿の饅頭と会津上杉家の饅頭で内府の饅頭を挟み込み──次の瞬間、その饅頭をつまんでひとかじりした。
「……!」
三成の目が見開かれ、頬に一気に血が上った。
いま、彼の脳裏には巨大な日本地図が鮮やかに広がっている。
会津へ向かう家康の軍勢。
その背後から迫る自軍。
大地を震わせる挟撃の図が、あまりにも明確に浮かび上がる。
「さすが……さすが城州殿!」
声は震え、盃を持つ指すらわずかに揺れていた。
「儂が二位様の御教書を戴いて兵を挙げれば、毛利、宇喜多、島津、立花、長宗我部……西国だけで十万は集まる。東国の諸将も加われば──あの老賊の命脈など、関八州のどこかで潰えるわ!」
胸の内から煮えたぎるものがせり上がり、三成の声は思わず大きくなる。
兼続はそんな友の激情を静かに受け止め、盃を満たした酒をそっと口に含んだ。
そして、ふっと息をついたあと──低く、しかし確かな声音で語り始めた。
兼続の口から静かに落ちた言葉は、炉端の火がぱちりと弾けたのと同時だった。
「これが──下策」
その一言が、三成の胸を刺す。
さきほどまで頬を紅潮させ、子供のように目を輝かせていた男が、ぴたりと硬直した。
「……今なんと申した、城州殿。これほど見事な挟撃の策が、下策とな?」
声には信じられぬという震えが混じる。
兼続は盃を指先で軽く回し、ふっと息を洩らした。
「戦は水物。いかに巧みに見える策でも、流れの一つで崩れる。まして相手は内府じゃ。あの古狸に関わる策は、どれほど練っても“そうそう上手くは行くまい”」
語る兼続の目は、常在戦場の男がだけが帯びる静かな鋭さを宿していた。
越後の龍、上杉謙信の薫陶。
幾多の死地を潜ってきた経験。
秀吉の庇護の下、常に勝者の側に身を置いてきた三成とは、戦場の匂いに対する感度がまるで違う。
三成は唇を引き結び、かすかに眉間を寄せた。
「……では、上策とは何じゃ。城州殿」
激情が収まるのを待つように、兼続はかじりかけの饅頭を口へ放り込み、もっちりとした餡の甘さを確かめるようにゆっくり噛んだ。
咀嚼音がやけに大きく聞こえる。三成の胸中に渦巻く焦燥のせいだ。
「上策か……なんてことはない」
兼続は盃を置き、三成の目をまっすぐに見た。
「内府は──捨て置く」
「……なんと!? 何もせず、見逃すと言うのか!」
火鉢の赤々とした炭が、三成の激昂に呼応するように揺れた。
兼続は肩をすくめ、苦笑した。
「よう考えてみよ、佐吉(三成)。内府は五十五ぞ。いくら丈夫とはいえ、あと何年春を見ると思う? それに引き替えわしらはまだ四十にも満たぬ。どう勘定しても、先に逝くのはあやつよ」
その声音は淡々としていたが、そこには長年国を背負ってきた男の現実的な冷たさがあった。
「内府が居なくなってしまえば、徳川などいくらでも始末のしようがある。焦ることはないわ」
三成はすぐに反論した。だが声には迷いがにじむ。
「与六(兼続)よ……内府が死んでも、徳川は二百五十五万石を抱えておるぞ」
「江戸の中納言に天下が取れるか」
兼続は鼻で笑った。
「あれに器量があるなら、内府はとっくに隠居しておる。そうではないから、掟を破って、狂ったように動くのよ」
左近も兼続と同じことを言っていた。
徳川秀忠──凡庸ではないにせよ、大望を抱いて天下の荒波を泳ぎきる器ではない。
だが三成の胸は晴れない。
法を守るべき立場にある自分が、不法を目の前にして“待て”と諭されることに、どうしても心がざわつくのだ。
正義が踏みにじられる痛み。
それを押し殺してまで大局を取るべきなのか──。
三成の指先が盃の縁を強く押し込む。
心の底から湧き上がる葛藤が、静かな室内を満たしていた。
憮然とした面持ちで唇を結ぶ三成など気にも留めぬ様子で、兼続は湯呑に残った茶を一口すすった。香ばしい茶の香りが静かな座敷にふわりと漂う。障子越しの冬月が兼続の横顔に薄い影をつくり、その眼光だけがやけに鋭く光った。
「内府が今いちばん欲しているのは戦よ」
淡々とした声だったが、その裏にある冷えた分析は重い。
「如何に内府といえど、泰平の世が続くかぎり天下を奪る口実がない。だからいずれ上杉か毛利、あるいは前田あたりに難癖をつけよう。そこから火の粉を広げ、乱世をあえて呼び戻す。それを名分に幕府を開く──それが戦法よ」
茶の湯気がふっと揺れ、三成の表情も陰る。改めて突きつけられた現実に、胸のあたりが焼けつくような痛みを覚えた。
秀吉が築いた政権は、征夷大将軍ではなく関白という異例の体制だ。その特殊性が、家康に付け入る余地を与える。あの男は秀頼を直接討つことはできない。そんな暴挙に出れば、明智光秀と同じ末路よ──三成もそれはよく知っている。
だが「秀頼の、そして帝の家臣として征夷大将軍になる」。その道がある限り、家康は政治の天井を突破できる。天下を手にするには、大きな乱が必要だ。乱れた世でこそ将軍職に名分が生まれる。
戦を起こしたい家康と、避けねばならぬ豊家。その構図が、三成の胸にじわりとした重しとなって沈んだ。
「となると……戦を起こさぬが上策か」
漏れた呟きは、ため息にも似ていた。
「その通りよ、佐吉」
兼続は饅頭をひとつかじり、甘味を味わうようにゆっくり咀嚼した。まるで言葉の重みに耐えるための間合いのようだった。
「これから内府は、あらゆる口実を捻り出しては挑発してくるじゃろう。だが、孤掌は鳴らん。誰も乗らねば、独り相撲で幕は閉じる」
「しかし……それはある意味、戦より至難だな」
「至難だとも。だがやらねばならん」
兼続の声音には、戦場を幾度もくぐった者だけが持つ覚悟が滲んでいた。
「舐めろと言われれば、内府の尻でも舐めるつもりで堪えるのだ。戦が遠のけば遠のくほど、内府から天下が遠ざかる。そういう理よ」
三成は黙り込んだ。自分の胸の奥の「正しさ」が軋む音すら聞こえた気がした。掟を破る者を見逃すことなど、本来の自分なら到底できぬ。だが──豊家のためなら、それすら呑み込まねばならぬのか。
その葛藤を噛み締めるように、拳が膝の上で静かに震えた。
「……城州殿。ご忠言、痛み入る」
ようやくの言葉は、苦さと決意が入り混じった声音だった。
「これからは、余計な騒ぎは慎もう。豊家をお守りするためならば……儂は内府の尻でも舐める」
兼続は目を細め、僅かに口角を上げた。
「さすが治部殿。よう得心なされた。……ついぞ思わぬ話になったが、これで儂も安心して会津へ帰れる」
「言うわ。初めから釘を刺すために来たのだろう」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑いあった。張りつめた空気がわずかに和らぎ、冬の座敷にあたたかな息が満ちた。
*
その夜。帰途についた兼続は、淀川の堤でふと足を止めた。川面を渡る風は冷たく、満天の星々が冴え冴えと瞬いている。
振り返ると、遠くに大坂の灯が揺れていた。豊家の灯、そして佐吉の灯でもある。
(頭の冴えなら佐吉は太閤殿下にも総見院様にも引けを取らぬ。だが──)
夜風が頬を撫でた。
(あのお二方には、必要とあらば己を巌にして待ち抜く胆力があった。はたして同じ芸当を……佐吉に果たせるか)
兼続は下弦の月を仰いだ。薄い月光が静かな堤を照らし、その光はどこか切なく、そして祈るように柔らかかった。
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