吉兵衛[2]
家康は、秀吉が生前最も神経を尖らせていた男だ。
虎之助も、市松も、孫六も、そのことを嫌と言うほど理解している。
「内府がその気になれば、天下が揺らぐ」
秀吉が口を酸っぱくして語っていた警句が、今なお耳の奥にこびりついて離れない。
だからこそ、三人は心の底で思っている。
──二位様(秀頼)が危うくなれば、命を投げ打ってでも守る。
その覚悟は、誰より強く持っているつもりだ。
だからこそ、豊臣家に仇なすかもしれぬ相手に、恩義を作るような真似など──本来、してはならぬのだ。
市松は触れた盃をそっと戻しながら、唇の裏で苦々しく噛みしめていた。
虎之助は黙って腕を組み、燭台をにらむように視線を落とす。
孫六は表に出さぬが、胸の内に重い石が沈むような感覚を抱えていた。
皆、同じ思いでいるのが分かる。
家康を頼るのは、毒を飲む覚悟に等しい。
しかし──三成という絶対的な権力者を相手にする以上、こちらにもそれに匹敵する強力な後ろ盾が要るのも事実だった。
五大老のうち、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家は三成寄り。
頼みの前田利家は病床に伏し、政治の場に引きずり出すことはできない。
長政の言った「内府様」とは、すなわち唯一残された選択肢──徳川家康。
炭が鈍く赤く光るのを眺めながら、三人の胸中に同時に浮かんだのはただ一つ。
──行くも地獄、退くも地獄……。
そんな覚悟の重さが、座敷の空気をさらに沈ませていた。
孫六は腕を固く組んだまま、しばし沈思していたが、やがて低く口を開いた。
「内府様に訴え出るは良いとして──万一の時、どう押さえる? 治部を放逐しても、内府様に天下を取られては元も子もあるまい」
疑念というより、己の責務を見据えた問いだった。
吉兵衛は膝の上で手を静かに重ね、孫六の不安を真っ向から受け止めるようにうなずいた。
「たしかに、孫六殿のご心配はもっとも。これを防ぐには、まず我らと内府様との結びつきを強くすることが肝要かと存じます。今、我らの仲間内では武蔵殿(池田輝政)が内府様の婿となっておられるが……」
そこまで言うと、長政は一度深く息を吸い込み、虎之助と市松に静かに視線を向けた。二人の胸中に波紋を投げ込むのを承知のうえで。
「これより、虎之助殿と市松殿に──内府様との御縁組を計らいまする」
座敷の空気が一瞬止まった。
虎之助も市松も、目を丸くして吉兵衛を見つめる。だが吉兵衛は怯まぬ。語る声に揺らぎがない。まるで結論を言うより前から、その先の景色まで見通しているかのようだった。
「殿下の御一門とも言える御両所が内府様と結ばれれば、豊家にとってもめでたきこと。それに──なんといっても内府様は天下一の律儀者。虎之助殿と市松殿が親戚ともなれば、ますます二位様への忠義に励まれましょう」
しばしの沈黙。
孫六は眉間に深い皺を刻み、思案の底から言葉を掬い上げるように呟いた。
「……そうか。お主の言い分もわかる。が、いささか話が俄すぎるな。虎之助も市松も、すぐに応とは言えまい」
その言葉に、虎之助と市松は無言で小さくうなずいた。二人とも内心は揺れている。
だが吉兵衛は、彼らのためらいを押し流すように身を乗り出した。
「されど、あまり時間はござらぬ。治部が博多から戻れば、どれほどの奸計を張り巡らすか知れませぬ。今のうちに我らも手を打たねば──」
吉兵衛の勢いに押され、三人の胸中に焦りが静かに沁み込んでいく。
その空気を払うように、市松が口を開いた。
「吉兵衛、お主の腹はわかった。が、それはお主の考えであろう。縁組となれば相手あってのこと。儂らは内府殿との付き合いが薄い。いかに話を整える? 武蔵に頼むのか?」
問いは穏やかだが、内心は半歩も譲らぬ構えがあった。
だが吉兵衛は、まるで待っていたかのように口元をわずかに緩めた。
「実は拙者、かねてより本多佐渡守殿と昵懇にしておりましてな。先日それとなく水を向けてみたところ、案外と乗り気で……」
ここで、声を落とし、三人にだけ聞こえるような低さに変える。
「すでに内府様のお耳にも入り、御両所さえよろしければ“ぜひ”と申されております」
虎之助も市松も、そして孫六までもが驚きに顔を見合わせた。
もはや話は“打診”ではなく“成立寸前”の段階にある。
三成への対抗策を急ぐ自分たちにとって、これほど都合のよい流れはない──それは誰の胸にも即座に浮かんだ。
だが、なおも決断の最後の一押しが要った。
吉兵衛はそれを見越したかのように、静かに告げた。
「……実は、この絵図を描いたのは、拙者の親父でござる」
それは、凝り固まっていた三人の胸をいっきにゆるませる一言だった。
「そうか。如水様のお智恵ならば、間違いあるまい」
「先にそれを申せ。ならば儂に異存はない。虎、どうじゃ?」
「儂も同じじゃ。如水様が我らに智恵を貸して下されたとは、有り難きことよ」
わずかに揺らめいた灯明が、四人の表情をやわらかく照らした。
先ほどまで冷えていた空気が、決意の熱を孕んでゆくのがわかる。
豊臣家の分裂を前に、四人の意思が確かに一つへと傾き始めていた。
*
黒田如水──吉兵衛の父であり、かつて「黒田官兵衛」の名で戦国に轟いた神算鬼謀の軍師。その名を聞けば、古豪も若武者も一歩退くほどの知略の冴えを持ち、いまは家督を息子に譲って名を改め、表向きは隠居の身として静かな日々を送っている。だが、その才はなお生ける伝説として畏怖と尊敬を集め、天下の風の向きを変え得るとまで囁かれていた。
その如水が「息子の口を借りて自分たちに策を授けた」と悟ったとたん、三人の表情には緊張の翳りがすっと消えた。
座敷の空気はゆるみ、先ほどまで硬く結ばれていた肩がほころんだかのように、三者はたわいない冗談を交わし始める。
もし三成という“君側の奸”を討てれば、豊臣家の未来は明るい──そんな希望が胸中に灯り、彼らの声音には久しく聞かなかった安堵が漂っていた。
ただ一人、吉兵衛を除いて。
吉兵衛は談笑に加わりつつも、どこか静かな距離を保っていた。
笑い声が弾む座敷の隅にあって、彼の眼差しだけが別の景色──豊臣家の行く末ではなく、自らが歩むべき次の“天下の形”を見据えている。
豊臣の譜代衆は戦国大名とは違う。
己の判断で動くことに慣れていない。秀吉が指示を出してくれさえすれば、どれほどの荒武者も迷うことなく暴れ回れた。しかし、その旗印が消えた今、彼らは生まれて初めて「自分の足で立つ」という事態に直面し、途方に暮れている。
その中で、吉兵衛だけはすでに前へ歩き出していた。
豊臣家を見限り、次の天下人となる家康へ密かに接近し、その覇業を後押しすることで黒田家の運命を切り開こうとしていたのである。
今回の策──家康と尾張衆を結びつける縁組工作こそ、その第一歩であった。
(……おぼこい連中よ。荒大名といえど、しょせんはサルの掌で舞わされていた小猿に過ぎぬ。サルが消えたとたんに道を失い、今度は如水の影にすがるとは……)
吉兵衛は口元に柔らかな笑みを浮かべていたが、その裏で、幼い頃から慕ってきた兄貴分たちを冷ややかに見下ろす思いが確かに蠢いていた。
父、黒田如水は秀吉の天下取りにおいて計り知れぬ働きをした。
だがその才覚ゆえに秀吉は如水を警戒し、相応の恩賞を与えることを避けた。
如水自身は欲が薄く、秀吉の胸の内も読み切っていたため冷遇を受け入れていたが、息子の吉兵衛だけはその扱いを深く不満に思っていた。
──ゆえに、吉兵衛は決めたのだ。
次の天下では、父の智を軽んじる者を許さぬ。
黒田家は、黒田家にふさわしい地位と領土を得てみせる。
のちに関ヶ原の戦いが勃発する。
尾張衆と近江衆の対立を家康が巧みに利用して火蓋が切られたその戦いで、家康が黒田吉兵衛長政を特に高く評価したのは、まさにこの時の働き──家康と尾張衆を結びつけ、多くの譜代衆を味方へと導いた手腕ゆえであった。
そして戦後、吉兵衛は五十二万三千石の大封を授けられる。
その厚遇を家康が示したのは、忠義の証をこの時すでに吉兵衛が差し出していたからにほかならない。
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