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Last resort  作者: 蒼了一


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35/103

吉兵衛[1]

 師走に入ったばかりの夜気は冷たく澄み、伏見城下の一角にある黒田屋敷の障子には、灯明の淡い光がゆらゆらと揺れていた。


 その一室では、火鉢から立ちのぼる赤々とした熱だけが、冷えた空気をどうにか押し返している。煮しめられた酒の匂いが満ち、遠くで風が竹林を鳴らす音すら聞こえてくるほど静かな夜。


 そんな中、四人の男たちによるささやかな酒宴が開かれていた。


「甲斐無き事よ……儂らは一体何のために骨を砕いて戦ったのか……」


 豊かな顎ひげを蓄えた大男──虎之助が、深く沈むような嘆息を洩らし、手にした大徳利をぐいと傾けた。盃に注がれる酒は、波打ちながら際限なく満たされる。


 その横顔は赤く火照り、しかしどこか影のような疲れが張りついていた。


「虎之助殿。御酒はその辺にされたらどうか。過ぎるとお体に障りますぞ」


 斜向かいの席から声を掛けたのは、鼻が大きく、いつも困り顔に見える吉兵衛。


 だが虎之助は口元を歪め、こぼすように言った。


「吉兵衛、これが呑まずにおられるかよ。戦は功無く、殿下の死に目にも会えなんだ。この鬱憤、素面では堪えられん」


 言葉こそ静かだが、その胸奥に溜め込んだものは重く澱んでいる。


「虎の言うことは最もじゃ。今宵は心ゆくまで呑み明かそうぞ!」


 隣に座る丸顔で目つきの鋭い男──市松が、吠えるように笑った。


 盃を重ねるたび頬を赤くしながらも、彼の言動には荒々しい生命力が満ちている。酒量では、むしろこの男の方が虎之助より危ういほどだった。


 そこへ、座の中ではもっとも地味で痩せぎすで寡黙な男──孫六が手の盃を膳に置き、ふう、と疲れた息を洩らした。


「虎之助も市松も大概にせい。今日はお主らの鬱憤を慰めるための席ではないぞ」


 その声音は穏やかだが、二人の酔いを断ち切るほどの冷たさが混じっていた。


「ほいじゃ孫六、なんの為じゃい。儂らは吉兵衛に招かれたから来ただけじゃ」


 市松が、即座に噛みつく。


 そのやり取りには荒っぽい友情の気配があり、他者が聞けば無礼の極みだが──この四人、全員れっきとした大名である。


 虎之助こと加藤主計頭清正かとうかずえのかみきよまさ(三十七)、肥後熊本二十五万石。


 吉兵衛こと黒田甲斐守長政くろだかいのかみながまさ(二十九)、豊前中津十八万石。


 市松こと福島左衛門大夫正則ふくしまさえもんのたいふまさのり(三十八)、尾張清須二十万石。


 孫六こと加藤左馬助嘉明かとうさまのすけよしあきら(三十六)、伊予正木十万石。


 いずれも秀吉に少年の頃から育てられ、苦難も栄達も共に味わった幼馴染である。


 ゆえに、人目のない席では官名など忘れ、昔日のように通称で呼び合うのが彼らの常だった。


「吉兵衛が“たっての話”と言うておったじゃろう。──吉兵衛、そろそろ我らを集めた理由を話せ」


 促され、吉兵衛は静かに背筋を伸ばした。盃を脇へ置き、小さく咳をひとつ。


 顔つきは、酔いをかき消すほどに引き締まっていた。


「お三方をお招きしたのは他でもない、──治部の件でござる」


「治部か……殺してもまだ足りぬ外道よ」


 虎之助が低く唸る。


 その瞳に宿る光は、酒で曇ったものではない。憎悪そのものの色だった。


「儂は彼奴の腹を引き裂いて腸を喰ろうてやりたいわい」


 市松が吐き捨てるように言う。完全に目が据わり、怒りが酒に乗って肥大していく。


 孫六は黙していたが、三成の名が出た瞬間、険しい表情がさらに歪んだ。


 押し殺してきた何かが、喉奥でわずかに震えているようにも見えた。


 *


 豊臣家の内部には、長く培われてきた二つの派閥が静かに並び立っていた。


 一つは、秀吉と同じ空気を吸って育ち、彼の出自を共にした者たち──尾張衆。


 もう一つは、秀吉が初めて一国の主となった近江長浜で召し抱えられ、政治と行政を支えた人々──近江衆。


 加藤清正や福島正則といった血気盛んな武闘派を中心とする尾張衆は、戦場でこそ本領を発揮する集団だった。


 対して石田三成を筆頭とする近江衆は、内政、軍政、補給……そうした“大軍を動かす仕組み”そのものを握り、秀吉から深く信頼されていた。


 後世、人はこれを武断派と文治派と呼んだが、元はどちらも秀吉の手で育てられた子飼い。


 天下統一までは、まるで車の両輪のように噛み合い、秀吉の夢を押し進めていた。


 だが──。


 戦の炎が消え、平和の風が吹き始めた途端、その両輪はゆっくりと軋み始めた。


 戦で功を立てることで己の存在価値を示してきた尾張衆は、天下泰平という状況下で活躍の場を失っていく。


 一方で、統治と行政の重要性は日を追うごとに増し、近江衆の発言力は強まるばかり。


 表向きは和を保っていても、尾張衆の胸には「使い捨てられた」という無念が徐々に溜まり、くすぶる火種は日ごとに熱を帯びていった。


 その渦に、朝鮮出兵という巨大な火が落とされる。


 秀吉は信頼厚い近江衆を作戦の要所に据え、尾張衆と共に朝鮮へ送り込んだ。


 広大な戦線、複雑な補給、苛烈な戦況──そこで両派は功を競い合う形でぶつかり、疑念と嫉妬と怒りは雪崩のように膨れ上がっていく。


 とりわけ尾張衆の憎悪の中心となったのが、全軍監査役として後方に立った石田三成だった。


 不正には容赦せず、融通は一切きかず、兵站の乱れや命令違反を厳格に摘発する三成。


 彼にとってそれは「職務」でしかなかったが──現場の武将からすれば、死線をくぐっている最中に“机上の理”を振りかざす、冷たい監察官そのものだった。


 報告書一枚、印一つが武将の運命を左右する。


 結果、多くの尾張衆が秀吉の不興を買い、処罰を受けた。


「三成がわざとやっている」


「自分たちを貶め、近江衆を引き立てるためだ」


 戦場で囁かれたそうした不満は、やがて怒号となり、怨嗟となり、尾張衆の心に深い傷となって刻まれた。


 秀吉の生前は、誰も露骨な行動には出なかった。


 だが、主を失った今──尾張衆の憤りは、もはや抑えきれぬ刃であった。


 そして、本多正信が三成の博多行きを面白がった理由も、まさにそこにある。


 この状況で三成が九州へ向かうという事実は、火に薪をくべるのか、それとも引火を促すのか──誰が見ても波を立てる出来事であり、正信にとっては格好の「風向きの変化」であったのだ。


 *


「──されど吉兵衛、如何な手を打つ?」


 虎之助と市松の罵声が途切れなく飛び交うなか、孫六が静かに盃を置いた。


 燭台の炎が彼の横顔を照らし、ぎらついた眼だけが獣のように光る。


 言葉少なな男が口を開くと、その場の空気がわずかに締まった。


 吉兵衛はしばし目を伏せ、喉奥に絡むものを払うように小さく咳をした。


 その仕草には、軽々しく口にしてはならぬ重さを心得ている者の慎重さが滲んでいた。


「我らがこれまで喰ろうた理不尽の数々──それを全て、治部の悪行として訴え出るのでござる」


 言葉が落ちた瞬間、虎之助、市松、孫六の三人は同時に眉をひそめた。


 盃を持つ指が止まり、酒の香りすら遠のくようだった。


 やがて、虎之助が怪訝な視線を向ける。


「訴えると言うたか? ……どこへじゃ。奉行にでも泣きつく気か?」


 虎之助の声音には嘲りというよりも、信じられぬという素直な戸惑いが混じっていた。


 五奉行のうち司法の頂点に立つのは石田三成。


 その本人に自らの罪を訴えるなど──考えるだけで鼻で笑われる筋書きだった。


 吉兵衛は、そんな三人の反応を見透かしたように首を振った。


「無論、奉行などではござらぬ。訴えるのは──五人衆の頭、内府様へ直接でござる」


 その一言で、座がざわめきをひそめた。


 火のはぜる音すら大きく響くほど、沈黙が落ちる。


 市松が赤く染まった頬をわずかに引きつらせながら、大盃を畳に置いた。


「……主ゃあ、本気で申しておるのか?」


 酔いが一気に醒めたような声音だった。


 吉兵衛は背筋を伸ばし、静かに、しかし揺るぎない調子で言い切った。


「無論、本気でござる。治部を懲らしめられる御方は、殿下より天下の仕置きを任されし内府様をおいて、他におらぬ。必ずや我らの訴えに耳を傾け、力を貸して下さるはず──」


 力強く言い切る吉兵衛の声に、再び場が沈む。


 虎之助も市松も孫六も、盃を持つ手を動かそうとしない。


 三成への憎しみは骨の髄まで染みついている。


 だが、それでもなお、心のどこかで躊躇が疼く。


 ──これはただの鬱憤晴らしでは済まぬ。豊臣家そのものを揺るがしかねない火を点けるのではないか。


 そうしたためらいが、三人の沈黙となって座敷に落ちた。


 卓上の灯明が揺れるたび、彼らの表情にもためらいの影が浮かんでは消える。


 尾張衆と近江衆の確執──口にすれば大袈裟に聞こえるが、所詮は豊臣家譜代の内輪揉めにすぎない。


 しかし、この内輪の火種に外様である徳川家康を巻き込むとなれば、話は一変する。


 火鉢の炭がぱちりと弾けた音が、まるで「軽々しく触れるな」と警告しているかのようであった。

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