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Last resort  作者: 蒼了一


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32/103

内府[6]

 治部少丸から本丸までは、およそ二百七十間──五百メートルほどの道のりだ。


 昼下がりの陽はやわらかく、石垣に落ちる影をゆっくりと伸ばしている。


 踏みしめる砂利はほどよく乾き、さらりとした音を立てながら草鞋の下でほどけていった。


 いくつかの門をくぐるごとに、ひなたの明るさと門陰の涼しさが交互に入り替わり、その度に城の奥へと誘われていくような感覚が胸の奥へじわりと広がっていった。


 本丸御殿は、外観からして他の建物とは格が違った。金具の光沢や彫刻の細やかさが、かつてこの場所が天下人の居城であったことを残酷なほど物語っている。幅二畳分もある畳廊下に足を踏み入れると、城内を満たす異様な静けさが肌にまとわりついた。


 秀吉の死はまだ正式には伏せられているというのに、御殿の空気はすでに「失われた主」を理解しているかのようだ。人の往来は多いのに、誰ひとり声を張る者はいない。足音すらひそめ、互いの息遣いだけがかすかに耳に残る。


 拓真は緊張から喉が乾き、勘兵衛は背中にじっとりと汗を感じながら、左近の背を黙って追った。


 大広間の脇を抜け、天守へと続く回廊に差しかかったとき、前方から七、八名ほどの一団がこちらへ向かってきた。佩刀の揺れる微かな音さえ、張り詰めた空気の中では異様に大きく響く。


 左近はすぐに歩みを止め、拓真たちを端へと促す。三人は邪魔にならぬよう控えめに腰を落とし、静かに頭を下げた。相手一団の足音が目前まで迫り、擦れ違う一瞬の緊張が息をのむほど冷たく張りつめる。


 そして──一団の中心にいた、恰幅の良い老人が、まるで空気を切り裂くように、小さく、それでいて驚くほど通る声で呼び掛けてきた。


「おう、そこもとは島左近ではないか。久しいな。息災であったか」


 声が響いた瞬間、空気がひゅっと締まった。


 振り向けば、白髪の髷に深い皺、頬の肉はたるんでいるのに──その老人は、ただ立っているだけで周囲を圧するほどの覇気を放っていた。年齢をものともしない、獣じみた精気。


「は。お陰さまで無事に過ごしております。内府様におかれましても、近頃いよいよご気色がよろしいとか。誠にめでたきことと存じまする」


(内府……げっ……本物の徳川家康だ!)


 拓真は、老人の胴服に光る三つ葉葵と、左近が発した「内府様」という言葉で、ようやく現実を飲み込んだ。


 教科書でしか知らない男が、今目の前にいる──その圧に思わず背中が汗ばむ。


「殿下がご病床にあられるというに、儂まで倒れるわけにはいかんからな。ご快癒なされるまで、儂が二位様をお支えせねばならん」


「誠に仰せの通りにござりまする」


 家康の声音は穏やかなのに、どこか底冷えする。柔らかく笑っているようで、全く隙がない。


「治部殿が博多に下り、そちもさぞ忙しかろう。……はて、確か佐和山へ帰ったのではなかったか?」


(そんなことまで知ってるのかよ……)


 拓真は心の中で震え上がった。諸大名の細かな動きまで把握する執念深さ。これが天下人を飲み込む男の恐ろしさか。


「お察しの通り、何かと気忙しく、一所に落ち着いておる暇がござりませぬ」


「左様であったか。本来ならとっくに隠居しておる歳じゃろう。そちは儂より三つも上であろう?」


「かつては高宮の里で侘び住まいをしておりましたが、あまりに退屈でしてな。気忙しいのも、道楽と思えば案外楽しいものでござりまする」


「若い者から見れば、元気なジジイというのも困り物よ」


「まったく仰せの通りで」


 二人は声を立てて笑った。


 しかしその笑顔は、どちらも目だけが冷えきっている。


 張り付いた笑みの裏に、互いの腹の底を見据える視線が火花を散らしていた。


 その場に立つだけで、拓真は息をするのさえ慎重になった。ここは、ただ言葉を交わしているだけに見えて、命運が揺れ動く場所なのだと痛感した。


「……ところで、変わった者を連れておるな」


 家康の視線が、突然ひゅっと拓真を射抜いた。


 その穏やかな声音とは裏腹に、まるで獲物の皮を一瞬で剥ぎ取るかのような鋭さがあった。


 左近は、背筋を汗が伝うのを確かに感じた。


 だが、肝心の表情は石のように動かない。長年、命のやり取りの中に身を置いた男の、完璧な面。


「この者、それがしの縁者にて。小姓として召し抱え申した」


「そうか。……以前は仏門にでも入っておったのか?」


 家康の視線が、拓真の髪──現代では何でもない髪型が、この時代では異様に見える部分──をなぞる。


(やば……そんな所まで見てくるのか)


 拓真の喉がかすかに鳴った。


 僧から還俗したばかりの者が、一時的にこのような髪型になることなど、さすがの拓真でも知らない。


 だが左近は一呼吸で嘘を整えた。


「ご明察の通りにござりまする。内府様のご慧眼には、恐れ入るばかりにて」


 追従は短く、それでいて隙がない。


 家康はふっと口端だけを上げた。


「まあよい。──ところで治部殿が博多から戻ったら、一度儂の所へ顔を出すようにと伝えよ。話したいことが色々とあってな」


「は、必ずお伝え仕りまする」


 家康の一団が通り過ぎていく。


 その背の向こう側にもなお、圧の波が尾を引き、空気を押しつぶしていった。


 *


 宝物庫の中に入り、扉が閉じられた瞬間、拓真は肺の奥にたまっていた空気を吐き出した。


「っは~~……死ぬかと思った……」


 背中は汗でびっしょりだ。


 立っているだけなのに、あの老人は人を締め上げてくる。


「左近様、今の方は……」


「ああ、あれが内府じゃ」


「やっぱり……」


 言葉にして初めて、指先の震えが自分のものだと自覚した。


 左近はそんな拓真を横目に、まるで散歩帰りのように平然としている。


「まあ、内府は本丸御殿に詰めておるからのう。遇うても不思議はない。……それにな、かえって都合が良かった」


「どういうことですか?」


 問い返すと、左近はわずかに口角をつり上げた。


 経験と戦略で磨かれた、猛獣のような笑み。


「お主に、あの男の“面”を見せることができたからよ。あれが、この天下で最も侮れぬ古狸の顔じゃ」


 その声は低く静かで、しかし戦場の風鈴のように危うい予兆を含んでいた。

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