内府[3]
徳川家康という名は、日本史に揺るぎない存在感を放っている。だが、その生涯に光を当てていくほど、表面の偉人像からはこぼれ落ち、複雑で矛盾に満ちた一人の男の姿が浮かび上がってくる。
三河国(愛知県中・東部)──穏やかな丘陵と湿った風が吹く土地。そこの小大名、松平広忠の嫡男として生まれた家康は、幼くして波乱の渦に巻き込まれた。
八歳で父を亡くし、松平家当主となったその瞬間から、彼の世界は狭い牢のようなものへ一変する。隣国の大大名、今川義元の人質として駿府へ送られ、故郷の松平家は今川家の手に落ちた。
駿府の冬は暖かでも、人々の視線は冷たい。幼い家康は、障子の隙間から差す光すらよそよそしい屋敷で十余年を過ごした。
主君の命に従うしかない“抑留”の日々は、少年の心から甘さを削り取り、かわりに忍耐という鋼を育てていった。
桶狭間の戦いにて今川義元、討ち死に──雷鳴のような知らせが彼の元に届いたとき、家康の胸に走ったものは喜びか、それとも恐怖か。
義元の首が討たれた混乱の中、彼はついに枷を外し、仇である織田信長と手を結んで独立を果たした。
しかし、自由の空気を吸った家康を待っていたのは、安堵とは程遠い、さらに険しい道である。
信長は苛烈な盟主だった。
二十年足らずで日本の中心を握り、戦場を駆け抜けるその背には、常に強力な命令と圧倒的な推進力が渦巻いていた。
家康はその奔流に巻き込まれ、幾度も酷使され、時には自らの妻と嫡男を失うという、肉をえぐられるような犠牲を強いられた。
同盟を結んだころ、織田信長は五十万石規模の一大名にすぎなかった。だが二十年も経たぬうちにその勢力は七百万石へと膨れあがり、名実ともに天下人となる。
一方で、家康は当初の二十万石からわずか七十万石へ増加したに過ぎない。数の上では大幅に伸びているはずなのに、信長の伸張ぶりの前では、まるで話にならない。
両者の差は、そのまま家康が同盟の名のもとにどれほど酷使され、どれほどの負担を背負わされてきたかを物語っている。数字だけでも、その過酷さは容易に察することができた。
にもかかわらず、家康は一度として信長を裏切らなかった。
利害や恐怖を超えた、何かもっと根の深い“筋”のようなものが彼を縛り、同時に支えていた。
その律義さこそが、後に「天下一の律儀者」と呼ばれる所以である。
本能寺の変で信長の灯火が消えると、家康は豊臣秀吉と対立する。しかし、神速で天下を奪い返した秀吉の勢いの前に、家康はついに臣従を誓うことになる。
豊臣政権の“二番手”として、彼は表向き従順に、しかし内心では常に深い静寂の中で思案を続けた。
そして、秀吉がこの世を去った瞬間──律儀者の仮面は音もなく外れた。
家康はとうとう策謀の刀を抜く。
関ヶ原に火を放ち、天下分け目を制すると、その勢いを保ったまま徳川幕府を開き、権力の座へと登り詰めた。
さらに豊臣家の火種を一縷たりとも残すまいと、大坂の陣にて秀吉の遺児と一族を徹底的に断つ。
最終的には“泰平の祖”と称えられ、非難の声すら薄れていくが、その後半生の冷酷さは、まさしく奸佞と言われて然るべきものだ。
だが家康にとって、それらはすべて必然だった。
強きは弱きを滅ぼす──それは戦国の掟であり、二番手であることさえ命取りになる。
もしも秀吉より早く死んでいたなら、凡庸な跡継ぎしか持たぬ徳川家がどうなったか。考えるまでもなく、滅亡は避けられなかった。
家康が天下を取り、豊臣家を滅ぼしたのは復讐でも覇欲でもない。
彼にとってはただ、“徳川家を生かすための道”を最後まで貫いたに過ぎないのである。
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