内府[2]
堺で拓真が三成に拝謁していたその頃、伏見の徳川屋敷にはまったく別種の空気が漂っていた。
秋の陽はすでに傾き、長い影が屋敷の廊下を染めている。外では虫の声が細く響くが、家康の居室だけは異様な静けさに包まれていた。積み上がった書状の山が、じっとりとした湿気を含んだ空気の中で重苦しく沈んでいる。
その静寂を破るようにして、本多佐渡守正信が足音を忍ばせながら現れた。
家康は文机の前に座り込み、書状へ目を走らせている。眉間には深い皺が刻まれていたが、その眼差しはどこか淡々として揺らぎがない。
「上様、治部殿が本日堺を発つとか……これで畿内から彼奴が消えますな」
正信は口元に皮肉げな笑みを浮かべ、慎重に声を潜めた。
だが家康は書状から目を離さず、気のない返事をした。
「左様か」
まるで天気の話にでも答えるような調子だった。
正信は片眉を上げ、もう一歩踏み込む。
「はて、興はありませぬか? 厄介払いができたとお喜びかと思うておりましたが」
「厄介? 治部がか? それほどでもあるまい」
家康は手の中の書状をぱたりと文机に伏せ、そのまま束ごと脇に押しやった。
どこか呆れたような、しかし僅かな愉快さを含んだ苦笑が漏れる。
「まあ、起請起請と騒ぐ者が失せて静かにはなるな」
その声音には、束の間の軽口を交わす余裕さえあった。
正信の眼が細く細り、興味深そうに家康を盗み見る。
起請──約束事を確かにするための誓約文。熊野権現の熊野牛王符の裏に書きつけることで、神明に誓ったこととなり、破れば血を吐いて死ぬ──そう信じられていた。いや、信じているというより“信じているという体裁”に意味があった。
豊臣秀吉は死の床にありながら、それを執念のように諸大名へ迫った。
秀頼への忠誠を、紙に、神に、そして形に縛りつけようとしたのだ。
もちろん、起請を破ったからといって本当に血を吐いて倒れると本気で考える者はいない。
だが、武士が、まして大名が「起請文を書く」という行動そのものには、否応なく政治的な重さがのしかかる。
三成は博多へ下向する前、五大老と五奉行で起請文を交わさせ、家康の動きを封じようとした。その周到さ、執念深さは、家康もよく知っている。
伏見の薄暗い室内で、家康は軽く鼻を鳴らした。
治部がいなくなれば、確かに面倒な文言を突きつけられることは減る。
だが同時に──あの政治巧者が畿内から離れることは、別の形で均衡を崩す火種にもなる。
正信はその思惑を読み取りつつ、なおも控えめな笑みを浮かべていた。
静寂が戻る部屋の中で、障子越しの木の陰だけが小さく揺れている。
「治部殿は博多から無事に帰ってこられますかのぅ」
声こそ柔らかいが、その裏には棘が潜んでいる。
家康は硯を横に置き、扇子で小さく風を送りながら答えた。
「さてな。たしかに、朝鮮にいる諸将の中には治部と仲の悪い者も多いと聞く。何事もなければ良いが……」
言いながらも、家康の声音に深刻さは薄い。
その含みを察したのか、正信は喉の奥で「カカッ」と笑った。
「はてさて、上様もお人が悪い。それを承知で治部殿を博多へ遣られたのは、他ならぬ上様でござらんか」
正信の揶揄に、家康は唇の端をわずかに上げた。
その顔には、三成を取るに足らぬ存在と見る軽蔑と、それでも認めざるを得ない能力への評価が同居していた。
「別に含むところがあるわけではない。あれだけの大軍を無事に引き上げさせられるのは、天下広しと言えど石田治部少輔をおいて他におらんだろう」
家康はその行政手腕だけは素直に認めている。しかし、同時に彼の言葉には、どこか突き放すような冷ややかさがあった。
「しかし、何事もなく……とは、まいらぬでしょうな」
正信が意味深に呟く。
その声音には、まるでこれから起きることを楽しむかのような余裕があった。
「さて、な……」
家康は表面上は穏やかに返したが、その胸中では別の計算が巡っていた。
正信の読み通り、彼は三成が博多で加藤清正や黒田長政らと衝突し、豊臣系諸将の結束にひびが入ることを密かに望んでいた。
──豊臣家に結束されたままでは、政治の盤面は動かぬ。
その結束を乱すのに、あの嫌われ者ほど適任な者はいない。
障子の隙間から差し込む日差しが、家康の瞳の奥にある冷たい光を際立たせた。
「まあ、多少の悶着があっても時が時だ。そう大事にはなるまいよ。……ところで佐渡よ、そんな戯言のためにわざわざ来たのか?」
軽く肩をすくめた家康の言葉に、正信は大げさに額を叩いた。
「これはしたり! 拙者としたことが、本筋を忘れてつまらぬことを申し上げてしもうた」
おどけた所作の裏には、老獪な知恵者らしい計算がちらりと見え隠れする。
「辰千代様のご婚儀ですが──大崎少将様もことのほかお喜びにて。年明けにもお輿入れの約定を交わしたい、と申しておられました」
その名を聞き、家康は細い目をわずかに上げた。陸奥大崎五十八万石の大大名、伊達政宗。戦国を駆けてきた野心家の顔が脳裏に浮かび、胸の内にかすかなざらつきが走る。家康の六男、辰千代(松平忠輝)と政宗の娘、五郎八姫の縁組を進めるよう、正信に命じたのは自分だ。それでも政宗が示す素早い“乗り気”には、どこか底知れぬ匂いがあった。
「それで少将様は、『これにて両家は親戚の間柄。ついては拙者にお手伝いできることであらば、巨細にかかわらず何なりと』とも申しておりました」
正信の報告に、家康はふっと鼻で笑った。だがその目の奥には、油断なく相手の腹を測る光がある。
「左様か……殿下が身罷られてまだ日も浅いというに、あの男も腹が黒い」
言葉とは裏腹に、家康の口元には自嘲にも近い苦笑が浮かぶ。秀吉が定めた掟──大名の派閥化を防ぐため、五大老、五奉行の承認なく婚姻を結ぶことは許されぬ。つい昨日提出した起請文にも“掟を遵守する”と自ら明記したばかりだった。
それでも政宗も、自分も、破ると分かっていて踏み込む。互いが互いの思惑を察したうえでの姻戚関係。政宗はそれに加えて、臣従の意志すら口頭ながら示してきた。
家康は、自分が棚に上げたまま、政宗の変わり身の早さだけを可笑しがっていた。
「されど上様、奉行衆には如何になさいますか?」
正信が小さく眉を寄せる。その名が出た瞬間、座敷の空気がわずかに緊張した。奉行衆──なかでも石田三成は、この非違を見逃すはずがない。あの男の鋭い眼差しと、理屈で詰め寄る姿が容易に想像できた。
しかし家康は、ひとかけらの動揺も見せずに言い放つ。
「捨て置け」
その声音は静かだが、冬の水のように冷たく揺るぎない。秀吉という“秤”が消えた今、三成らがどれほど声を荒げようと、家康の立場が揺らぐことはない。
むしろ今こそ、諸大名との縁組を進め、政権の中枢で確固たる地歩を築くべき時──家康はそう確信していた。
障子の向こうで、からりと木枯らしが庭木を揺らした。その乾いた音が、家康が静かに勢力を広げようとする決意の響きと重なって聞こえた。
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