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Last resort  作者: 蒼了一


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内府[1]

 戦国の海風は、どこか鉄の匂いを帯びている。九月の堺──空は高く澄み、港には異国の帆船がゆっくり揺れていた。


 イエズス会の宣教師、ガスパル・ヴィレラがかつて「東洋のベニス」と謳ったこの街は、安土桃山の世となった今もなお、国中の品と人が渦のように集まる巨大な商都である。かつてほどの勢いは大坂城の築城によって削がれたものの、それでも街路にあふれる人声や商人たちの気迫には、独自の誇りが宿っていた。


 その喧騒から一歩隔たった堺奉行所の大広間は、驚くほど静かだった。磨き込まれた畳の匂いがかすかに漂う。拓真は左近と並んで正座しながら、胸の奥がぎゅっと収縮するのを感じていた。


 三成はこの広間の静けさと同じく、冷ややかな落ち着きをたたえていた。政権の多くの役務を担い、堺奉行の地位も兼任しているが、いま奉行所の実務を預かるのは兄の正澄である。ゆえに三成は一時的な本陣としてここへ立ち寄ったに過ぎない——それでも、彼が放つ緊張感は場にいる者すべての背筋を伸ばさせた。


「左近、堺まで追ってくるほどの急用とは何事だ?」


 三成の声音は淡々としている。だが三日前に見送った家臣の突然の来訪に、わずかな戸惑いが混じっていた。拓真にもそれが分かった。自分の存在がその原因だと思うと、喉がひりつく。


「殿、ご多忙の中、誠に申し訳ございませぬ。殿が堺を発たれる前に、是非ともご引見賜りたい者がおりましたので、急ぎ参上つかまつりました」


 左近は深く頭を垂れ、言葉の一つひとつに緊張を滲ませる。三成の視線が、じわりと拓真へと移った。


「左様か。──それはそこに控えておる者だな」


「はっ。この者、工藤内匠頭拓真くどうたくみのかみひろざねと申しまして、それがしの遠縁に当たる者です」


 名を呼ばれた瞬間、拓真の背筋に電流が走った。堺へ向かう道中、左近と何度も打ち合わせをし、作り上げた身の上話——紀伊国雑賀の生まれ、畠山家臣、工藤家の三男で、左近の遠縁。畠山家没落後は島家に庇護され、その後は諸国遊学をしていた、という物語。


 もちろん、すべて嘘だ。存在しない家、存在しない親族、存在しない過去。


 だが三成の前でそれを語るのは、心臓を素手で握られるような恐怖を伴った。何か矛盾を突かれたらどうする? 言葉の端を拾われ、即座に見抜かれたら? 三成の鋭い眼は、その不安をまるごと貫いてくるように思える。


 しかし、左近が傍らにいる。それだけで、かろうじて呼吸が落ち着く。彼が保証する以上、物語が露見する可能性はまずない。畠山家はもはや滅び、残党も四散。調べようのない“空白”こそが、拓真の盾だ。


 ——それでも、三成の前にひれ伏すこの瞬間、拓真は痛烈に思い知らされていた。


 自分は、この乱世で生きるために、いま本物の「偽物」になろうとしているのだと。 


 名は——「工藤内匠頭拓真くどうたくみのかみひろざね」。


 その名を思い返すたび、拓真の胸には微かなざらつきが残る。自分のために左近が拵えた“新しい人生”の象徴。その音の一つひとつが、現実と虚構の境をふちどるように響いていた。


 武家の諱は訓読みが原則である以上、「拓真」を「たくま」と読むことはできない。ゆえに彼の諱は「ひろざね」。


 そして姓と諱のあいだに挟まる「内匠頭」は、武士が日常で用いる通称──仮名である。左近は、拓真の名と響きが近いという、半ば洒落のような理由でこの官名を与えた。


 本来、武士同士は諱では呼ばない。身分の高い者は官名で、そうでない者は私称の官名や「○○郎」「○○之介」といった輩行名が使われる。


 だが現代知識を持つ拓真の耳には、「内匠頭」という仮名はどうしても引っかかった。浅野長政の玄孫が後にこの名で知られること──そして、その末裔が元禄の世に大事件を起こすこと──どうしても胸の片隅でざわつく。


 しかし、それを左近や三成に告げるわけにはいかない。未来の知識を口にした瞬間、自分の立場は瓦解する。


 いや、そもそも企みがうまく運べば、その“未来”さえ変わってしまうのだ。


 拓真は小さく息を吐き、その不安を胸の奥へ押し込めた。


「……左様か、そのような話は初めて聞いた。なるほど、南蛮人の元におったのか」


 三成の声は穏やかだが、その奥には疑念よりも好奇心が見え隠れしていた。


 左近がすかさず続ける。


「この者はそこで新奇な技を数々修めました。必ず殿のお役に立ちます」


 拓真は深く頭を垂れ、畳の目の向こう側まで見つめるような気持ちで息を殺す。三成の一言で、ここからの人生が丸ごと決まってしまう——その重さが背中にのしかかった。


「お主の推挙ならば儂に異存はない。それで、禄はいかほど取らせる?」


 左近は一拍の間も置かず、静かに答えた。


「まず、千石がよろしいかと」


 その瞬間、拓真の胸が跳ねる。千石──無名の者にはあまりに破格の待遇。


 だが雷振筒を運用する独立部隊を任される身となれば、必要な権限も伴わねばならない。左近はそれを見越している。


 千石は三成ほどの大名でも、本来は即断をためらうほどの高禄。しかし、この主従のあいだにある信頼は常識すら超えていた。


「新たに召し抱える者に千石か。左近がそれほど見込んだ者ならば心強い。──内匠頭」


 呼ばれ、拓真は緊張で指先が冷えるのを感じながら答えた。


「はっ」


「面を上げよ」


 拓真はゆっくりと顔を上げた。


 その瞬間、三成の姿が視界に収まる。


 思っていたより背は低い。しかし頭が大きく、理知の重みがそこに宿るようだった。整った顔立ちには凛とした美しさがあるが、目の下の黒ずみが、その頭脳が常に酷使されていることを物語っている。


 冷静で、鋭い。だが同時に、どこか疲れの影が滲むその眼差しは、戦乱のただ中で生きる武将の現実そのものだった。


「宜しく頼む。儂に力を貸してくれ」


「ははっ」


 拓真が深く礼をすると、胸の奥で固い何かが静かに落ち着いた。


 これで、自分は正式にこの世界の「工藤内匠頭拓真」になったのだ。


 謁見はそれで終わり、三成は数時間後、再び慌ただしく堺を発った。


 広間に残ったのは、静寂と、拓真に課せられた新たな責任の重みだった。

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