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Last resort  作者: 蒼了一


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24/103

棋譜[1]

 九月二日。秋の気配が日に日に深まるこの頃。陽はやわらかく傾きながら佐和山城の石垣を照らしている。吹き抜ける風には、わずかに乾いた涼しさが混じっている。


 久方ぶりに佐和山に帰ってきた島左近が大広間の中央に座ると、奥から拓真が姿を現した。その瞬間、左近の眼差しがふっと和らぐ。


「久しいな。息災でおられたか」


 言葉以上に、目が雄弁だった。これまで以上に深く、探るようで、しかし温かい関心が宿っている。


「はい。勘兵衛さんにはお世話になりっぱなしで……本当にありがとうございます」


 拓真はどこか緊張した面持ちだが、以前見せたような怯えはない。腹の底で覚悟のようなものが固まりつつあるのだろう。


「なに、あまり馳走もせず、こちらの都合で不便を掛けた」


「いえ……おかげさまで、十分休めました」


「それは何よりよ。儂はこのところやけに忙しくてな。佐和山に帰れなんだが、貴殿のことは案じておった」


「お気遣い、ありがとうございます」


「うむ。それがこうして元気な姿を見せてくれたとは、喜ばしい限りじゃ」


 左近は軽く頷くと、近習を手招きする。人払いの合図だ。襖が静かに閉められ、畳の匂いが濃くなる。外の生活音すら遠ざかり、座敷には張り詰めた静寂が落ちた。


「さて……これで儂と貴殿の二人きりよ」


 左近は膝を正し、声の調子を落とす。


「人払いさせた上で、こんな広間の真ん中で話したいとは、よほど誰にも聞かせたくない話と見受ける。……なんぞ、思い出したことでもあるのかの?」


「はい」


 拓真は深く息を吸い、視線を畳に落とした。胸の奥に溜めていたものがゆっくり言葉となる。


「あの時は……失礼しました。多分、見抜かれていたとは思いますが……何も覚えていないと言ったのは、咄嗟についた嘘です。申し訳ありません。本当は……ただ、なぜこんなことが起きたのかもわからなくて。だから、考える時間が欲しかったんです」


 左近は眉を細めるでもなく、責めるでもなく、ただ静かに聞いていた。


「よいよい。儂はあの時、貴殿の“人”を見たかっただけよ。最初からつまびらかに語ってくれるなど、端から期待しておらなんだ。……しかし、あれじゃな。貴殿は嘘が下手じゃのう」


 からりと笑う。緊張が少しだけほどける。


「すみません……自分でも、もう少しうまくやれればと思ってたんですけど……」


「まあよい。それだけ言うのじゃ、腹が決まったということじゃな」


 左近の声は鋭さと慈しみを同時に帯びていた。


「はい。よくよく考えて……左近様には、すべてをお話ししようと決めました」


「すべて、とな? それは一体、どのような話じゃ」


「すべて……です。私の正体と……恐れながら、天下の行く末について……」


 畳の上を風が通ったような、微かな空気の震え。


「ほう……それは、ただ事ではないな」


 あの日──謎の光とともに現れた男。その姿を思い返しながら、左近は背筋をゆっくりと伸ばした。眼差しが鋭く研ぎ澄まされてゆく。


 この男が今から語るものは、ただの身の上話ではない。


 天下の行く末すら揺らす、重大な告白だと直感して。


 左近の気配が、ふっと変わった。


 それまで柔らかく会話していた空気が、一瞬にして研ぎ澄まされた刀のような静けさに置き換わる。対面する拓真の背筋を、ひやりと冷たいものが走った。思わず喉が乾き、唾を飲み込む音が自分でもはっきり聞こえるほどだった。


 ──言うのだ。ここで逃げれば、もう前へ進めない。


 ライフル銃の図面を引いた時から覚悟は決まっていた。すべてを明かさねば構想は形にならない。理屈ではわかっている。だが、いざその瞬間が迫ると、胸の奥がざわめき、指の先まで妙に熱く感じられた。


「私は……ずっと先の未来から来ました。本当なら、まだ生まれていないはずの人間です」


 ようやく絞り出した声は、わずかに震えていた。


「……はて?」


 左近は眉をわずかに持ち上げた。驚愕というよりは、意味を咀嚼しきれず立ち止まったような表情だ。


 ──まだ生まれていない?


 ──なら、ここにいるのは何者だ?


 ──未来から来た?


 左近の思考が、ゆっくりとその言葉の輪郭を確かめていくのが、見て取れた。


 やがて、低くつぶやくように言った。


「……未来とは……貴殿はこれから後の世に生まれ、昔に来ておるというのじゃな。たとえるなら……儂が源平合戦の頃に赴くような……」


「そうです。その解釈で合っています。私にとって“今”は、ずっと昔の時代なんです」


「ずっととは……どれほど昔……いや、未来なのじゃ?」


「今から四百十三年後です」


 左近の瞳が大きく見開かれた。


 いつも泰然としている男が、声を潜めるどころか素で驚きの息を漏らす。


「なんと……!?」


「私は……四百十三年後の陸奥志津川で地震に遭い、津波に呑まれました。気がついたら伏見のお屋敷で介抱されていて……それ以外のことは何も知らないんです」


 言葉は止まらなかった。


 正体を打ち明けると決めてから幾度も頭の中で繰り返し、磨き続けた言葉。迷いの影一つなく口をついて出る。


「なぜ自分にこんなことが起きたのか……左近様たちが見た光の玉がなんだったのか……まったくわかりません」


 語り終えた瞬間、拓真は深く息を吐いた。


 胸の奥から重い石が落ちていく──そんな感覚があった。


 だが、解放感とは裏腹に、静まり返った座敷には、これまでになく重く張り詰めた気配が漂い始めていた。 


「よん……ひゃく……じゅうさん……」


 左近の唇が硬く震え、その言葉をゆっくりと噛みしめるように繰り返した。


 驚愕はまだ収まらない。荒唐無稽と切り捨てることは容易い。だが──あの光、あの出現の仕方、そして目の前の男がまとう浮世離れした空気。どれを取っても、「虚言」の一言で片づけられる話ではなかった。


 左近は胸の奥のざわめきを鎮めようと、深く息を吸い込んだ。肺の底まで冷たい空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。ほんのひと呼吸で、武将としての冷静さが戻ってくる。


「……先日、貴殿が伏見を発った前の日に、大事があったかを存じているか?」


 低く静かな問い。


 だが、その裏には鋭い刃のような意図が潜んでいた。


 答えは一つ──豊臣秀吉の死。


 だがその事実は、明、朝鮮との和睦成立と撤退完了まで国家の中枢に秘匿されている。佐和山において、それを知る者は左近ただ一人だけ。


「……豊臣秀吉が亡くなったことですか?」


 言葉が落ちると同時に、座敷の空気が変わった。


 左近は目を閉じ、ゆっくりと天を仰いだ。


 まるで心の中の盤面が、音を立ててひっくり返るかのようだ。


 “秘密”──本来なら誰も知らぬはずの重い事実を、この男は知っている。


 しかもそれを、死の二日前に「明後日」と示唆していた。


 未来から来たなどという荒唐無稽な話が、もはや否定できない現実へと変貌する。


「なんと言うことだ……。そのような話、本朝はもとより、唐天竺や南蛮でも聞いたためしがない」


 声には呆然とした色が混じり、それでも武将としての理性が必死に状況を押しとどめているのが伝わる。


 出会った日の光景が脳裏に蘇る。


 妖しげな光とともに現れた男──まさか、それが四百十三年後の“未来人”であったとは。


「儂と会った日、勘兵衛に漏らした『明後日』とは……殿下のことだったのじゃな」


「……はい。やっぱり勘兵衛さん、気にしていたんですね」


「うむ。しかし……四百年も後の世でも、殿下のご命日が知られているものなのか?」


 左近の問いには、歴史を畏れ敬う者としての純粋な驚きが滲んでいた。


「いえ……豊臣秀吉という人物は有名ですが、命日まではさすがに。私はあちらの世界で“史書を著述する仕事”をしていました。多少、過去の出来事を知っているだけです」


 本当はただのフリーライターだが、この時代の言葉で説明できる範囲は限られている。表現が多少大袈裟になるのはやむを得ない。


「……過去の出来事、か。では──これから何が起こり、どうなるかも知っているわけじゃな」


 左近の声音は静かだが、その奥底では巨大な思考がうねっていた。


 拓真はわずかに息をのみ、しかし逃げずにうなずく。


「ふむ……」


 左近は腕を組み、深く眉間に皺を刻む。


 畳の間には、風も音も通わぬような重苦しい沈黙が落ちた。


 やがて、沈黙の淵から低く噛みしめた声が浮かび上がる。


「先ほど、貴殿は“天下の行く末”と言ったが……その様子だと、当家の将来はあまりめでたくなさそうだ」


 鋭い。


 やはりこの男は戦場だけでなく、政でも読みが深い。


 拓真は胸の奥が重く締めつけられるのを感じつつ、言葉を選ぶことなく告げた。


「…………たぶん、左近様も予想されていると思いますが……この先、天下分け目の合戦が起きます」


 佐和山の静寂が、はっきりと揺らいだ。

読んでくださり、本当にありがとうございます!


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