志津川[2]
入社三年目の冬、拓真の日常は突然きしみ始めた。
アメリカ発の金融危機が波のように押し寄せ、これまで安定していた会社の足元が、一気にぐらついたのだ。
編集部の空気は、連日ピリついていた。コピー機の音ひとつに皆が敏感に反応し、“倒産”“リストラ”といった縁起でもない単語が、ささやき声で飛び交う。
取材帰りに編集部へ戻るたび、室内に漂う不安の温度が、肌にじっとりまとわりつくようだった。
そんなある日の夕方。
デスクのヤッさん──中田靖から、「なあ拓、たまには二人で飲むか」と声をかけられた。
いつもなら気安い冗談を交わすのに、その日はどこか言いにくそうな表情で、誘い方も妙に慎重だった。
連れて行かれたのは、新宿の雑多なビルの隙間にひっそりと灯りをともす、小さな居酒屋。
格子戸をくぐると、ほんのりとした焼き鳥の匂いが鼻をくすぐり、カウンター越しに流れるスローな演歌が、仕事で張りつめた神経をゆっくりほぐしていく。
冷えたジョッキで乾杯を済ませると、中田は口元に付いた泡も拭わず、軽すぎるほど軽い調子で言った。
「拓ぅ、俺と一緒に独立しない?」
「……えっ?」
あまりに唐突で、ふざけているような口調とは裏腹に、あまりに重たい内容だ。
思わず拓真は、ジョッキをテーブルへ置く手に力を入れすぎて“ゴン”と鈍い音を立ててしまった。
「独立って……ヤッさん、会社辞めるんですか?」
問い返す声が少し震えていた。
ようやく落ち着いてきたはずのビールの泡が、胸の奥で再びざわつき始める。
中田は「まあまあ」と手を軽く振り、ようやく口元を拭ってから言葉を継いだ。
「いやー、会社さ。本格的にヤバいらしいんだよ」
「マジすか!?」
「マジマジ。ここだけの話、部署いくつか潰すってさ」
店内のざわめきが遠のいたように聞こえた。
照明の温かい光さえ、なぜか不気味に揺れて見える。
「じゃあ……歴探(月刊歴史探検)は?」
「歴探は雑誌部門じゃ稼ぎ頭だから残るよ。でも正社員は半分以下にするらしい。外注を増やす方向でな」
「まじすか……」
ただの噂だと思っていた危機が、現実として目の前に突きつけられる。
若手、独身、平社員。
立場的に、真っ先にリストラ候補に挙がるのは自分かもしれない。
背中に冷たいものが流れ落ちる感覚がした。
中田はジョッキを軽く揺らしながら、少し声を落とした。
「でも悪い話ばっかじゃないんだ。希望退職で外注になるなら、最低五年の業務委託契約を約束してくれる。それに、退職金も結構な額が出る」
「経営傾いてるのに、そんなことあるんですか?」
「正社員抱えるのが一番金かかるんだよ。退職金なら共済もあるし、リストラのコストって考えれば…まあ理にかなってる。あと社長が、今回の件すげえ責任を感じてるらしくてな。社員にだけは何とかしてやりたいって、銀行や役員を説得したらしい」
「そんなところまで話が進んでたなんて……。でもヤッさんは残ればいいじゃないですか。歴探のエースだし、編集長候補でしょ。絶対引き留められますよ」
すると中田は、少し照れたように鼻の頭をかいた。
「いや、独立は前から考えてたんだよ。ミコとも話しててさ。今回のは逆に良いきっかけだと思ってね」
「意外ですね……でもなんで独立なんです? 景気も悪いのに」
「今の会社も嫌いじゃない。でも俺はもっといろんな本を作りたいんだよ。ムックとか単行本とか、好きな企画で勝負したい。歴探はジャンルがほぼ固定だから、改訂版や焼き直しばっかでさ……正直、飽きた」
「……まあ、確かに歴探は“探検”しても“冒険”はしませんからねぇ」
「あ、うまいこと言うね~。……まあ、そんなわけで来年の春くらいをメドに考えてる」
「春……って、あと三ヶ月ちょいじゃないですか。……そっか、寂しくなるなぁ」
「……えっ? 俺からのオファーはナシ?」
「あっ、そうか! でもなんで俺なんです? 誘うなら他にも……あっ、わかった。会社がヤッさんを辞めさせる代わりに、“工藤に引導渡せ”って言われたんですね!?」
「ちげぇよバカ。そんなヤツ最初から誘わねえよ」
「じゃあ……なんで?」
「単純にデキるからだよ」
「え?」
中田は真っ直ぐ拓真を見た。
いつもの冗談でも軽口でもない、信頼そのものの視線だった。
「もう五年も一緒にやってるけど、拓が期待以下の仕事したって記憶……俺、一度もない」
「え、えー、そんな……過大評価ですよ……」
誉められ慣れていない胸が、熱くじんと疼く。
感情と一緒に、ビールまで勢いよく喉へ流し込んだ。
「すいません! 生中おかわり!!」
思わず声が裏返り、店の奥にいた店員が笑いながら振り向いた。
その瞬間、重く沈んでいた胸の奥に、小さな灯りがともった気がした。
「あとさ、お前パソコン得意だろ。フォトショとイラレは言うに及ばず、Web関係も強いし、3DCGまで扱える。極めつけはCADまで使いこなせるってんだから、そりゃ貴重よ」
居酒屋の暖簾の内側でゆらゆら揺れる白熱灯の光が、中田の顔を柔らかく照らした。
その声は冗談めかしているが、どこか本気の響きも混ざっている。
「あっ、そっちですか。まあ、どれも“画をつくる”って点では似てるんで、大差ないんですけどね。工学部行ってたおかげっすよ」
拓真はジョッキのフチを指先でくるくるなぞりながら、気恥ずかしさをごまかすように笑った。
自分の技術が評価されるのは悪くない。だが、中田がそこまで具体的に挙げてくるとは思わず、胸のあたりがむずがゆい。
「なんだ、取材力とか文章力を褒めたほうが良かったか?」
「いや、べつに! そんなわけじゃ……」
「まあ文章の方はまだまだだな。だがああいうのは鍛えりゃ伸びる。俺の専門分野でもあるしな。むしろお前は、俺が全く手が届かない分野が得意だからいいんだよ」
そう言って、中田はぽんとテーブルに肘をついた。
その表情は先ほどの軽口とは違い、編集者としての冷静な眼差しに変わっていた。
「明渓大の西田教授いるだろ?」
「ああ、ヒスポンの監修してる先生ですね」
ヒスポン──『History of Weapon』。
歴史探検の別冊で、武器史に特化したマニアックな雑誌。
発行部数は多くないが、返本率が桁違いに低い“堅実な稼ぎ頭”だ。
「あの教授さ、拓のCGめちゃくちゃ褒めてたぞ。『本物の図面として使えるレベルだ』って。ろくに資料もないのに、よくあそこまで精度出したって感心してた」
「……それ、俺にも直接言ってましたね。丸投げしてくるとこは大変ですけど」
拓真は苦笑しつつも、胸の奥に少しだけ誇らしい熱が差した。
褒められ慣れていないせいで、軽く肩がむず痒くなる。
「でだ。来年書く論文、拓に手伝ってほしいんだと」
「論文? また銃の分解図ですか?」
「いや、テーマは火薬史。製法の図解とか言ってた」
「はあ……それじゃ本は無理ですね。火薬の製法なんて、倫理的に完全アウトじゃないですか」
「まあ一般公開しないやつだから、本にするわけじゃない。半分趣味みたいなもん。それを個人依頼でやりたいんだと。ただな……社員が外で仕事受けるのはまずいんだよ。うちは基本アルバイト禁止だから」
「あー……じゃあしょうがないですね」
「社員のままだったら、な」
中田の言葉が、わざとらしいほどゆっくり落ちてくる。
拓真は眉をひそめ、ジョッキを置いた。
「……なんですか、その含みのある言い方」
「いや〜困ったなぁ。教授は金だけは持ってるからさ。ちょっと渋ったら『えっ!?』って額を提示してきたんだよ。いや〜参っちゃうな〜。拓を小金持ちにしたかったんだけどな〜。残念だな〜」
中田はどこか芝居がかった声で言い、胸ポケットからペンをすっと抜いた。
紙コースターの裏にサラサラと数字を書き、ひょいと拓真の前へ滑らせる。
拓真は覗き込み──目を見開いた。
「えーーっ!! マジですか!? この四分の一でも破格ですよ! こんな額、大学教授が出す仕事じゃないですよ!?」
「大学の教授って世間知らずなとこあるからさ。こういう仕事の相場なんて知らんのよ。でもまあ、あの人のライフワークだから、本人が納得するまで付き合ってやるなら……ぼったくりにもならんだろ」
「なんか……すんごい都合の良い理屈に聞こえますけど……でも、先生の仕事なら確かにやりがいはありますね」
「だろ?」
中田はにやにやしながらジョッキを掲げた。
「まあ年末年始にゆっくり考えろよ。来年の春、俺の相棒になってくれたら──最初の仕事はこれだから」
その言葉には、酔いの軽さよりも“本気”の熱が混ざっていた。
「あと今日は俺が全部出すから、好きなだけ飲め。好きなだけ飲み食いして……少しでも断り辛くなれ!」
「下心まる見えなんだよなぁ! でも……じゃあゴチになりまーす!」
拓真は笑いながらジョッキを掲げ、乾杯代わりに勢いよく飲み干した。
喉へ滑り込む冷たいビールが、一瞬だけ不安を洗い流し、その代わりに静かな期待をじわりと満たしていくようだった。
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