回転[1]
八月十八日未明、豊臣秀吉は静かに息を引き取った。満六十二歳。夜の空気は湿り気を帯び、まだ闇に沈む伏見城の奥に、ぽつりと蝋の火だけが揺れている。
幼い息子、秀頼の行く末を案じながら手を伸ばしたまま、その指先はついに何も掴めなかった。
石田三成は枯れ木のように痩せ細った主君の寝台に侍り、膝をついていた。危篤の報せを受けて以来、一時も側を離れなかったその身体は疲労の色に沈み、頬はやつれ、瞳は深い影を帯びている。
それでも、すでに骸となった秀吉の顔を、三成はまるで凍りついたように見つめ続けた。覚悟していたはずの別れが、胸の奥を容赦なくえぐる。
「……おいたわしや、殿下。二位様(秀頼)の末々、さぞや心残りでござりましょう」
唇が震え、声はかすれた。誰にも聞こえぬよう抑えた嗚咽が、薄闇に吸い込まれていく。
涙が滲む視界に、主君の面影が歪む。慈しみも、怒りも、夢も、残された者の手の中で砂のように崩れようとしている。
「されど……ご安堵召されませ。この佐吉(三成)の目が黒いうちは──決して、内府(徳川家康)の思うままにはさせませぬ!」
その誓いは、もはや言葉ではなく叫びに近かった。握り締めた拳に、大粒の涙がぱたりと落ちる。そこには忠義というより、もはや祈りと執念が混じった何かが宿っていた。
*
豊臣の天下は、あまりにも脆かった。
天下統一に至るまで、秀吉は常軌を逸するほどの速度で戦と政治を積み上げてきた。織田信長の後継など本来すんなり相続できるはずもなく、柴田勝家、織田信雄、そして徳川家康──幾重にも立ちはだかった障害を、押し潰すようにして進んだ結果の天下である。
その中でも、とりわけ秀吉の晩年を苦しめたのが家康だった。
臣従したとはいえ、禄高二百五十五万石。石高で言えば第二位の大大名、上杉景勝の倍を超える突出した所領を与えられ、五大老筆頭に君臨する。
名実ともに政権の二番手──いや、秀吉が病に伏した今となっては、最大の実力者とも言えた。
従二位権中納言という高位にありながらも、まだ年端も行かぬ秀頼では、到底相手にならない。
秀吉は法の整備から神頼みに至るまで、あらゆる手を尽くして家康の野心を押さえ込もうとしたが、その不安は死の床に至るまで消えなかった。
さらに、もう一つの大問題があった。朝鮮出兵である。
秀吉は織田政権を引き継いだものの譜代家臣は乏しく、体制の足場は脆い。残る敵対勢力を“滅ぼす”のではなく“臣従させる”ことで急ぎ統一を果たした結果、毛利、上杉、伊達、島津と言った地方覇者達の実力を温存してしまった。
その結果、功労者に与えるべき領地は不足し、不満は燻り、いざという時に背を向けられる可能性が常に残り続けた。
新たな領土を獲得し、潜在的な敵対大名の勢力比重を下げる。
そこで秀吉は、外征という形で矛先を外へ向けた。
だが、それは国内の不安定を棚上げするだけの策でもあった。
いまも朝鮮には十四万の兵が展開している。
朝鮮および宗主国の明と休戦し、外征軍を無事に撤退させるため、秀吉の死は翌年まで伏せられ、遺骸は側近たちの手で静かに、ひっそりと土に返された。
夜風が吹くだけの墓所で、天下人の最期は驚くほど静かだった。
*
秀吉が世を去った日の治部少丸は、虫の音と木々の葉音だけが聞こえる静謐に包まれていた。昼下がり、残暑の湿り気を帯びた秋の風が、庭の竹をわずかに揺らしている。
その静けさの中、島左近は床の間を背に胡座をかいていた。障子越しの光が斜めに差し込み、左近の影を床に長く落としている。対面には垣屋勘兵衛。二人とも、本日未明に秀吉が世を去ったことなど知らない。
「……そうか。大義であった」
左近は短く言ったが、声音にはわずかな警戒がにじんでいた。
勘兵衛は姿勢を正し、さらに報告を続ける。
「調べましたところ──拙者が斬った男、名は栢谷将監。長船紀伊守様の麾下でございました。しかし、どうやら戸川肥後守様に通じていたようにございます」
その名を聞くと、左近の眉がぴくりと動いた。
長船紀伊守と戸川肥後守。いずれも宇喜多家の中枢を担う重臣でありながら、互いに権勢を争っている。
大老の家に火種が燻っていることは、秀吉の側近である三成にとって、そして三成を支える左近にとっても、決して望ましい話ではない。
「それが露見して……その高橋という男に追われておったのか」
「そのようで」
「備前宰相様はまだ朝鮮におられるというのに……まったく、心配の種は尽きぬものよ」
左近は軽くため息をついた。
他家の内紛ではあるが、豊臣政権の均衡は細い糸で吊られているようなものだ。ひとつが切れれば、どこで三成に火の粉が降りかかるか分からない。
その予感が胸の奥に小さな棘となって刺さる。
「しかし……そちの話だと、工藤殿はずいぶんとひ弱なようだな」
わずかに口元を緩ませた左近に対し、勘兵衛は苦笑しながら頷く。
「はい。昨日も熱を出して、一日寝ておりました」
「今も寝ているのか?」
「いえ、今はだいぶ復調したようでして。国友へ戻る又蔵を見送りに出ております」
「そうか。で──他に気づいたことは?」
左近の眼差しが鋭くなる。勘兵衛は一瞬だけ視線を落とし、何かを探るように記憶をたどった。
ひっかかっているのは、ただひとつ。
拓真がぽろりと漏らした、あの奇妙な言葉。
「……そういえば。明後日──つまり今日ですが、『それどころでは無くなる』と申しておりました」
「ほう。『それどころでは無くなる』……か。何か大事があるというのか?」
「尋ねようとしたのですが、あまりに懸命に取り繕うので……誼を壊してもならぬと、深くは問いませなんだ。その後の騒動で、話も立ち消えてしまいまして……」
勘兵衛の声には、説明し切れぬ違和感が残っていた。
左近はしばし沈思し、庭に揺れる影へと目を移す。
今日という日が、何をもたらすのか。胸の底に、言い知れぬ不安と期待が同時に渦巻いた。
「……ふむ。まあ、今日が過ぎれば何かは分かろう。ご苦労だった勘兵衛。引き続き頼むぞ」
そう言い切ると、左近は静かに立ち上がった。
「京、大坂の件は、一段落したら──案内すると工藤殿に伝えておけ」
その声音には、武将としての厳しさと、奇妙な縁を結びつつある男へのわずかな興味が入り混じっていた。
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