琵琶湖[3]
「……この手紙は、一六〇〇年の八月下旬に出されたものだと思います」
拓真は、村上主任から差し出された古文書に視線を落としたまま、静かに言葉を選んだ。
紙はところどころ擦り切れ、肝心の日付が欠損している。だが、筆致と文面の癖は、彼にとってあまりにも馴染み深かった。
「宛先が大山伯耆で、ここに──『具足五十領を急ぎ樫原大炊まで』とありますから」
「それだけで、そこまで時期を特定できるんですか?」
村上主任の問いには、純粋な驚きが滲んでいた。
「はい。物資の調達を大山伯耆に頼んでいるということは、本来の上役である島左近が不在だったと考えられます」
拓真は、まるで講義をするように淡々と続ける。
「龍仙寺衆は九月二日に、大山伯耆と合流して佐和山城を出陣しています。ですから、このやり取りが成立するのは遅くとも八月下旬まで。しかも“急ぎ”とあるので、直前の話だった可能性が高いですね」
言い切る声に、迷いはない。
「なるほど……」
村上主任は何度か頷きながらも、すぐに別の疑問を口にした。
「でも、どうして龍仙寺衆に具足なんかが必要だったんでしょう?」
「擬装のため、だと思います」
拓真はそう答えると、持参していた資料の一冊を開いた。
「ほら、ここです」
「……あ、はい」
「高野越中が、大垣城で龍仙寺衆の装備を見て驚いた、という書状がありますよね」
「確かに……」
「高野越中ほどの重臣が、関ヶ原の戦いが始まる直前になって初めて装備を見た、というのは不自然です。つまり、それだけ直前まで龍仙寺衆は正体を隠していた、ということじゃないかと」
拓真は、資料の行間を指でなぞった。
「具足は、世間の目を欺くために必要だった。そう考えると、すべて繋がります」
「……確かに。そう考えると、腑に落ちますね」
村上主任は感心したように息を吐いた。
「あくまで推測ですけど。確証があるわけではないので……」
拓真はそう前置きしながら、内心で苦笑した。
(まあ……これは俺が五平に書いてもらった手紙だから、間違いないんだけど……)
「それにしても、本当によく研究されていますね」
村上主任は、改めて拓真の顔を見た。
「どのお話も、まるで現場にいたかのような説得力があります。もしかして……工藤広真の生まれ変わりなんじゃないですか? お名前も一字違いですし」
一瞬、拓真の胸の奥がひくりと鳴った。
工藤内匠頭拓真──その名は、後世では工藤内匠頭広真と伝わった。
祐筆の聞き違い。崩し字を読めなかった自分の不注意。訂正されぬまま残った誤記。
そして、自ら署名した書類のほとんどが、龍仙寺の火事とともに失われたこと。
それらを、誰も知らない。
「いやぁ……そんなこと、あるわけないじゃないですか~」
拓真は頭をかきながら、少し大げさに笑ってみせた。
笑顔の裏で、過去と現在が静かに軋む。
そのとき、村上主任の携帯電話が控えめな着信音を立てた。
「あ、すいません。ちょっと失礼しますね」
彼女はそう言って立ち上がり、パーティションの向こうへと移動した。
「──もう着く? そう。今日は休館日だから、事務所の方から入って。そっちにマキちゃんがいるから、声かけてくれれば大丈夫。──うん、見えてるよ。じゃ、待ってるから」
館内は静まり返っている。
そのせいで、パーティション越しの声がやけに鮮明に耳へ届いた。
「どなたか、いらっしゃるんですか?」
拓真の問いに、村上主任はどこか含みのある微笑みを浮かべた。
「ええ。ぜひ工藤さんにご紹介したい子がいるんです」
「……え?」
「垣屋元綱の末裔で、今は京都の大学に通っている子なんです。夏休みでこちらに帰ってて、時々ここの資料館の整理も手伝ってもらっているんですよ」
「へぇ……」
その一言が耳に届いた瞬間、拓真の胸の奥が、はっきりと音を立てて脈打った。
垣屋勘兵衛の名。
この世界で完全に孤立した存在だと思い込んでいた自分が、思いもよらぬ形で“かつての縁”に触れようとしている。
「史学専攻で、まだ一回生なんですけどね。卒論のテーマは工藤広真にするって張り切っているんです」
「……!」
「工藤さんの話をしたら、どうしても直接お話を聞きたいって。ご迷惑でなければ、少しだけでも」
拓真は思わず身を乗り出していた。
「それで、もし時間があれば、実家にある資料も見てほしいそうです」
「あ……それは、こちらこそ」
声が、わずかに上ずる。
「垣屋家の資料なんて……願ってもない話です」
抑えきれない高揚が、言葉の端々に滲んだ。
この旅で最も見たかったものに、まさか“人”を通じて辿り着くとは思ってもいなかった。
「そう言っていただけてよかった。きっと本人も喜びますよ」
そのときだった。
──カチャリ。
展示室の方から、扉の開く音が響いた。
「あ、ちょうど今来たみたいです」
村上主任は立ち上がり、ラウンジの入口に向かって手招きをする。
「垣屋さーん。こっちこっち!」
「はーい。失礼しまーす」
軽やかな声。
その声を聞いた瞬間、拓真の胸の鼓動が一拍、遅れた。
姿を現したその人物を見たとき──拓真の呼吸は、完全に止まった。
「初めまして。垣屋日菜と申します。本日はお時間をいただいて、ありがとうございます」
そこに、佐名がいる。
否。
理性は即座に否定する。彼女が佐名であるはずがない。
佐名は四百年前に生きていた女性。
それでも。
声も。
顔立ちも。
佇まいも。
あまりにも──佐名だった。
「私、どうしても工藤さんに……」
挨拶を続けながら、日菜は拓真の顔を見た。
そして、言葉を失った。
「あの……大丈夫……ですか?」
「え……? 大丈夫って……?」
「いえ、その……」
日菜の声が、遠く聞こえる。
視界が、滲む。
そのときになって、拓真はようやく気づいた。
自分の頬を、温かいものが伝っていることに。
「あ……」
喉が、うまく動かない。
「これは……何でもないんです。本当に……すいません。突然、変なところを……」
言葉を絞り出そうとするほど、涙は溢れ続けた。
「いえ……そんな……謝らなくても……」
日菜は戸惑いながらも、そっとハンカチを差し出した。
五ヶ月。
拓真は、この世界に戻ってから一度も泣かなかった。
どれほど辛くても、どれほど後悔に苛まれても、涙だけは堪えてきた。
そのすべてが、今、決壊した。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
気づいた時には、もう止めようがなかった。
息を吸おうとすると喉が詰まり、視界が滲む。
涙は、理由も順序も無視して溢れ落ち、拓真の意思など意に介さず頬を伝った。
これ以上、この姿を見せてはいけない。
そう思った瞬間には、体が先に動いていた。
拓真は、静かに日菜に背を向ける。
視界いっぱいに広がるのは、琵琶湖だった。
いつの間にか雨は上がり、雲の裂け目から差し込む光が、湖面を無数の破片のように煌めかせている。
風に揺れる水の色も、遠く霞む対岸の稜線も。
それは記憶の中に刻まれたあの日──。
佐名と二人で見た景色と、何ひとつ変わっていなかった。
Last resort ─ 完 ─
そして──
Last rewriteへ
「…………その話、本当なの?」
囲炉裏の炭の爆ぜる音に紛れて、低く押し殺した佐名の声が落ちた。
「わからねえ。ただ、角倉の玄さんがそう言ってた。岐阜じゃ今、その噂で持ちきりだって」
賀津は視線を逸らし、出されたお茶を少し啜った。
「でも……もし本当だとしたら、どうして旦那様は……」
言葉はそこで途切れた。不安が胸の奥で形を持ち始め、続きを口にする勇気を奪う。
「だから行ってくる」
賀津は即座に言った。迷いを挟む余地はない。
「ウソかホントか確かめりゃいいんだ。俺なら、タクミサマを見間違えることはねえから」
「飛騨なんて……そんな山奥に?」
驚きと恐れがないまぜになった声が返る。
「お賀津ちゃん、本気なの?」
賀津は小さく息を吸い込み、闇の向こうを見据えた。その横顔には、決意だけが刻まれている。
「本気だ。もし見つけたら──タクミサマの首に縄をかけてでも、佐名サマの前に連れてくるから」




