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Last resort  作者: 蒼了一


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琵琶湖[2]

 彦根駅のホームに降り立った瞬間、拓真は胸の奥がわずかに軋むのを感じた。


 電車のドアが閉まり、走り去る音が遠ざかるにつれ、現代の雑踏が薄皮のように剥がれ落ち、この土地が抱え込んできた時間の重みだけが残る。


 近江の領主となった石田三成は居城を大津城に移し、佐和山城には島左近が入った。だが左近の没後、行政府としての機能に乏しい佐和山城は次第に顧みられなくなり、やがて廃城となる。ふもとの彦根山に新たな城が築かれ、時代とともに国の名は近江から滋賀へ、城下町は彦根市へと姿を変えた。


 佐和山城の建材の多くは彦根城へと移され、山に残されたのは、かつてここに確かに城があり、人が生き、戦い、夢を抱いたという事実の名残だけだった。


 ——本来なら、ここは森だったはずだ。


 拓真の記憶にある世界では、佐和山城跡は鬱蒼とした木々に覆われ、人影もまばらな場所だった。だがこの世界では、山頂一帯が公園として整備され、観光客の足音と笑い声が風に混じる。過去は丁寧に磨かれ、「風光明媚」という言葉で包み込まれていた。


 それが悪いわけではない。だが、拓真にはどこか現実感が希薄だった。あまりに整いすぎた風景は、血と泥と焦げた火薬の匂いを、完全に消し去ってしまっている。


 佐和山公園の入口でタクシーを降りると、拓真は軽く息を吸い込み、山頂へ向かって歩き出した。


 山頂とはいえ、七合目付近まで車で上がれるため、道のりは穏やかだ。舗装された坂道を進むたび、靴底が乾いた音を立てる。その音が、かつて鎧兜に身を包んだ者たちの足音と、否応なく重なって聞こえた。


 公園の一角に建つ佐和山歴史資料館が視界に入る。


 龍仙寺衆の資料を大量に収蔵する国内有数の施設であり、調査研究の拠点でもあるその建物は、外見こそ現代的だが、内部に収められているものは、この地が辿った異様な歴史そのものだ。


 拓真は、入院中からここの学芸員と連絡を取り合っていた。質問を投げ、資料閲覧を願い、意見を交わすうちに、文字だけでは埋められない距離が確かに縮まっていった。


 それでも——実際にこの場所を訪れるのは、今日が初めてだ。


 自動ドアの向こうに広がる空間を思い浮かべ、拓真は無意識に指先へ力を込めた。


 ここには、仲間たちが生きた証がある。


 そして、佐名へと繋がる、わずかな手がかりがあるかもしれない。


 期待と不安が入り混じった感情を胸の奥に押し込み、拓真はゆっくりと資料館へ足を向けた。


 歴史として整理された過去と、自分だけが知る“現実”とが、これから真正面から向き合う。その予感が、静かに背筋を正させていた。


 *


「どうも初めまして。主任の村上です。今日は遠いところから、わざわざお越し下さってありがとうございます」


 差し出された名刺とともに向けられた笑顔は、肩の力が抜けた柔らかなものだった。


「あ、いえ……こちらこそ。資料の閲覧を許可していただいて、本当にありがとうございます」


 拓真は軽く頭を下げながら、胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけほどけるのを感じた。


 村上主任は、穏やかな物腰と親しみやすさを併せ持つ中年の女性だ。これまでの問い合わせの大半に応じてくれた人物であり、メール越しではあるが何度も言葉を交わしてきた。そのため、初対面でありながら「初めまして」という感覚は薄い。


 ——やっぱり、文章の印象どおりの人だ。


 安心感が先に立つのは、相手の人となりをすでに知っているからだろう。


「それにしても……スゴいですね。眺めも最高じゃないですか」


 入館するなり、拓真は思わず感嘆の声を漏らした。


 佐和山歴史資料館は改築されたばかりで、館内はまだ新材の匂いすら残している。ラウンジの西側は全面がガラス張りになっており、その向こうには彦根の市街地と、鈍色に沈む琵琶湖が一望できた。


 今日は小雨が降る生憎の天気だが、雲を透かして広がる水面の存在感は圧倒的で、景色の価値をいささかも損なっていない。


「今日は休館日だから誰もいないんですけど、普段は結構人が多いんですよ。ラウンジだけなら入館料も要りませんし、喫茶コーナーもありますから、人気なんです」


「そうなんですか……。お休みの日なのに、すいません」


「いいんですよ。水曜は出勤日ですから」


 村上主任は気にも留めない様子で笑い、言葉を続けた。


「下の子が小学生なんで、土日はお休みをいただいてるんです。休館日でも資料整理とか企画展の準備とか、やることは山ほどありますし」


 そう言いながら、村上主任は拓真をラウンジの奥へと促した。


 中央にはいくつものテーブルが並べられ、その上には丁寧に配置された資料の束が見える。紙の色合いや装丁の違いだけで、拓真の視線は自然と引き寄せられた。


「本当は研究室でお見せする決まりなんですけど、今ちょっと……いえ、かなり散らかってまして。とてもお客様をお通しできない状態なので、こちらにご用意しました」


「わざわざ……お気遣いありがとうございます。こちらこそ、すみません」


「そんなことないですよ~。私のほうも、工藤さんに見ていただきたい資料がたくさんありましたし。ちょうど良かったです」


 その言葉に、拓真の胸の内がわずかにざわめいた。


 龍仙寺衆について——その内実、その空気、その人々の癖や沈黙の意味まで含めて知っている人間は、この世にもう自分しかいない。


 二十年以上の研究歴を誇るベテランである村上主任でさえ、この分野に限って言えば、拓真の知識には遠く及ばない。


 メールでのやり取りを重ねるうちに、村上主任が彼の造詣の深さに驚いていったのは、文章の端々からも伝わってきていた。今では、彼女自身の研究課題について意見を求めてくるほどだ。


 ——研究者として見られている。


 ——それも、この世界の住人として。


 その事実は、どこか誇らしく、同時に胸の奥をひりつかせた。


 ここに並ぶ資料の向こう側には、かつて自分が共に生き、戦い、失った時間がある。


 拓真は静かに息を整え、テーブルの前に腰を下ろした。


 過去はもう動かない。だが、記録の中に残された“痕跡”は、今も確かに息をしている。

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