第37話 午後3時30分。
アイーダはそわそわしながら待っていた。さっきから、何回も見た大きな柱時計をまた見る。…3時30分…まだかしら?もう始まってはいるわよね?
「今帰ったよ。予定より早かった。」
そう言ってドアを叩く音がする。アイーダは走って行って、ドアの内鍵を開けたが…入ってきたのは、黒髪を顔の右半分が見えないように流して覆って、右手に白い手袋をして、杖をどこかに置いてきてしまったのか…右足を引きずり、壁に左手をつきながら歩いている男。
そっくりね。話には聞いていたけど。
「まあ、殿下。思ったより早かったんですのね?上着はどうされましたか?」
「廊下が長くて、汗をかいてしまってね…兵に持たせた。」
兵に?ねえ…。
「そうでございますか、お疲れでございましょう。お座りください。お茶にいたしましょう。」
ドアを開け放ったままにしようとしたが…その男が後ろ手に閉めた。
ソファーに腰を下ろしたその男は…見れば見るほど私の夫にそっくりである。
見た目ばかりではなく、声までなんとなく似ている。ほんの少し高いかな。髪の下ろし具合もそっくり。あの侍女が…よほどよく観察したのねぇ。
でも…目が全然違うわね。
夫のふりをして、ここに来た意図がよく読み切れないので、とりあえずお茶を入れる。
テーブルの上に置かれたままの冷めきった薬草茶を見て、その男がボソッとつぶやいた。
「このお茶、飲まなかったの?」
「ええ。帝国で流行の薬草茶なんですってね。どうも、匂いがきつくて。」
そんなことを言いながら、カップにお茶を注ぐ。
「まあ…いいか。」
「え?」
「いや、何でもない。アイーダ、私にお茶を飲ませてくれないの?」
「…まあ。お茶ぐらいご自分でどうぞ、セレドニオ様?」
にっこり笑って、我が夫にそっくりの仮装をしているセレドニオ様に、お茶を勧める。
*****
謁見の間の控室で待つように言われていたので、ガイスカもセヴィリアーノ様の隣に座って待つ。
侍女が、少し遅れると言付かって来たらしく、お茶を入れてくれた。
セヴィリアーノ様の右足を引きずるのも、板についている。まず、疑う者はいないだろう、とガイスカは思った。杖も離さず持ち歩いている。
この謁見に、何か仕掛けてくるかと、昨日から緊張はしていたが、見たところ控室付近に刺客はいないようだ。
パヴァンが、お茶を入れている侍女の手元をじっと見ている。
こいつは息子、カミロの友人らしく、全面的に信用していいと太鼓判を押していた人物。ビダルで女王陛下の護衛をしていた時から思ってはいたが、皮膚の色からすると、レマ族だろうな。そんなことを考えていると…
侍女が、カップを慎重にそれぞれの前に置くと、そそくさと退室しようとした。
パヴァンがその侍女の髪をいきなりつかむ。早わざだった。
ぎゅっと髪を引いて顎をあげさせて…セヴィリアーノ様の前に置かれたカップを取ると、その女の口に…入っていたお茶を注いだ。
ごふっ、と、その侍女が吐き出したのは、大量の血だった。随分、即効性のある毒を使うんだな…。
パヴァンが、その女を放る。
…毒、ね。こんな宮殿の真ん中で、この方は命を狙われているのか?
セヴィリアーノ様が表情一つ変えずに、ため息を一つついた。
「何事ですか?」
殿下用のショールを持って駆けてきたらしいチロが、ドア前で血を吐いて倒れている女を見て動揺している。
「チロ!陛下の護衛はどうした?」
「あ、あの後すぐ、交代だと、帝国の近衛が来まして…」
パヴァンが叫んだ。
「サティシュ!」
「ああ。部屋に戻ろう。あの人の狙いは…私ではなかったようだ。」
*****
「いやあ、新鮮でいいなあ。僕に抱かれたくないという女がいるなんて、ぞくぞくするよ。狩りに行ってさ…。」
アイーダが、先ほどまで座っていた椅子を放る。
「腰を抜かして竦むウサギより、牙をむく狼の方が射殺して楽しいよね。」
もうすでに部屋はぐちゃぐちゃである。紅茶のカップは散乱し、応戦するのに投げ飛ばした椅子が壁にぶつかって音を立てる。
「大丈夫。優しくするよ?どうせ僕の弟はお前を抱けもしないんでしょう?くくっ、あの体だしね。」
そう言いながら、笑って近づいてくる男。気持ち悪い。夫と同じ顔をしているのが…本当に気持ち悪い。アイーダは寝室に入って鍵をかけたが、その男が真鍮のランプ立てでドアごと壊している。
…正気の沙汰ではないな…。
最後の一撃で、ドアノブごと壊された。男が放ったランプ立てが、窓ガラスを突き破って、中庭まで飛んで行った。
「侍女に言われたでしょう?避妊用のお茶を飲んでおくようにって。まあ、いいか。子供ができてもお前の夫とそっくりな子が産まれるだけだし。」
「……」
「その子がビダルの国王になる。いいねえ…。ねえ?」
「は?なにがですか?」
まだ距離がある。
窓から出ようかと、ちらっと窓を見たのを見られたらしい。
「この周りはね、僕直属の近衛が固めているから、窓から外に出ても、外で犯されるだけのことだよ?みんなに見られながら。くふふっ。あ…そう言うのが好きなのかな?」
スカートをまくり上げて…ヴァミばあさんに貰った護身用のナイフを取り出して構える。
「ああ…いいねえ…自害用のナイフまで持ってきたのかい?気の強い女もいいなあ。今までの女は、おとなしい子ばかりだったからねえ。」
ニヤニヤしながら距離を詰められる。
ナイフなど、まともに使えないと思っているんだろうか?
壁際に押されて、襲い掛かられる。
ナイフを取られまいとして、逆手に持ったナイフを振り上げ、思い切り引くタイミングで胸元を狙うが、逸れた。左腕に刺さる。と、同時に、腹のあたりにけりを入れようとして…足首をつかまれてしまった。一発は入った。が、足を取られた反動で、床にたたきつけられてしまった。
「ねえ…お前…僕の顔に傷を作ったね?」
夫と同じ顔に…顔の左頬が切れて、血がにじんでいる。怒りのためなのか、興奮しているのか…頬が上気している。
身をよじって足を抜こうとしたが、男は自分のブラウスのタイを緩めて笑っている。
「いいね。こういうのも。泣いて喚いて、組み敷かれるのも楽しそうでしょう?」
「くっ」
「どうせね、お前はこの後、皇帝陛下に献上されるんだから、その前に、僕を夫だと思って抱かれておけば?」
「は?」
「皇帝陛下が、ぜひ、お前を味見したいから連れて来いってよ。ね?初めては僕の方がいいでしょ?」
「クズね。」
もう片足をその男の足で踏みつけられて、腕も踏みつけられて自由が利かない。腕の感覚がなくなるほど踏まれて…ナイフを蹴られる。手が届かないところまで飛ばされてしまった。
くそ。一思いに胸を狙えばよかった。
一瞬、ほんの一瞬、迷って、逸れた。あんまり似てたから。でも、全然違う。
「くふふっ。いい様だなあ。」
その男の靴が、スカートをまくり上げて、私の股間を踏む。
ああ、本当に嫌だ…。
「サティシュ!」
私は…夫の名を呼んだ。




