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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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懊悩

「わしには分からなかった。シャーロックの悩みを解決する術が。所詮、わしは絵師ではないからな……」


 別宅の縁側、雨上がりの月夜。

 悲しく語る重三郎の隣で、お雪は黙って聞いていた。

 事情を知った今、彼女もまた解決の糸口が見つけられずにいる。

 そして当人のシャーロックは奥の間で寝ていた。食事を摂ったのは二人を安心させたが、悩みを解消しない限り繰り返されるだろう。


「どうして、生きた人を描こうとしているのに、死体になったのですか?」

「おそらくシャーロックの写実的な画風が原因なのだろう」


 絵師ではないにしろ、数々の作品に携わってきた重三郎はその審美眼をもって原因が分かっていた。

 お雪は黙って先を促す。重三郎は咳払いをしてから続けた。


「あの者は見たものをそのまま描くことができる。それゆえに動かない人を描くのは死体を描いているのと同じなのだ。逆に風景などはその瞬間を写しているからこそ、質感や特徴を捉えることができるのだろう」

「それでは――シャーロックは絶対に人を描けないのですか?」


 もちろん、人さえ描かねば良いのだろうけど、シャーロックが描きたいと願っているのなら由々しき事態である。それに件の手紙に描かせるように指示があった。無視しても良いのだが、その結果どうなるのかは全くの不明だ。下手をすると重三郎に危害が加わる可能性がある。


「それはないと言いたいのだが……今のままでは難しいな」

「義父上。私は――シャーロックに人を描いてもらいたいです」


 重三郎は怪訝な顔で「情でも移ったのか?」と問う。

 お雪の性格から男に対して優しい気持ちになるのは考えづらかった。


「情は移りました。だってあの子は実に楽しそうに絵を描くんですもの」

「よく分からぬな。たったそれだけでか?」

「百に勝る理由です。私がこれまで見てきた絵師は誰しも欲がありました。有名になりたい。金持ちになりたい。そして世間に認めさせたい。優れた絵師でも少なからずありました。でも――シャーロックにはそれがないのです」


 同じ意見だったので重三郎は頷く。

 子供が遊びで絵を描くのと似ているが、それよりも純粋に絵を描くのが楽しくて仕方がないという姿勢だった。単純に技術があるのは二の次で、楽しさが高じていつの間にか上手になったのだろう。


「それに私はシャーロックの絵が好きなんですよ。シャーロックが楽しそうに描いている様子を見るのも好きです。それなのに、絵のせいで悩んでいる姿は――見たくありません」


 お雪の眼がひたひたと濡れだした。泣きはしないが悲しんでいると重三郎は感じる。

 けれども、重三郎にはどうしようもできなかった。

 シャーロックに生き生きとした人を描かせるのは至難の業だ。たとえ成功したとしても、今度は写実的な絵が描けなくなるかもしれない。


「わしも気持ちは同じだ。そのような優れた才を持つ者が挫折するところは見たくはない」


 ふと後ろを振り返って奥の間の方向を見る重三郎。

 物音しない静けさが心をざわつかせる。

 そしてそれは消えることなく広がっていく。



◆◇◆◇



 シャーロックが絵を描かなくなって二日が過ぎた。

 お雪が心配そうにしているのも含めて、重三郎は気の毒に思う。

 一応、三食は食べていて、夜は寝ているのだけれど――元気がないようだ。


「初めは厄介者だと思っていたのだがな。それがこうも大事に思えるとは……」


 元々、重三郎はお人よしなところがある。シャーロックを江戸まで連れてきたこと、お雪を養女に迎い入れたこと、絵師を支援して作品を売り出していること。数えたらキリがない。


 しかしそのお人よしのおかげで、絵師たちの信頼を得て商売を繁盛させたのは否定されない。店を切り盛りしている番頭や手代もそんな彼の人柄を信頼していた。


「大旦那様。何かお困りことですか?」


 店にある重三郎の仕事部屋で、今後の方針について報告していた番頭の勇助に心配されたのは無理もないことだった。明らかに思案顔であったのは、細やかな気配りのできる勇助以外でも気づくだろう。


「おお、勇助。実はとある絵師の画風について悩んでおったのだ」

「出過ぎたことを申しますが、画風の悩みは当人が克服するものではないですか?」

「そうだな……出過ぎているのはわしのほうだ」


 勇助は精悍な顔をした若者――とは言っても三十は超えている――で頭の回転が早く、武士であっても大成するような度胸の持ち主だった。もしお雪がシャーロックの世話ができなければ任せようと思っていたほどで、何より重三郎からの信頼が厚い。


「いえ。手前が言い過ぎました。それでそのお方はどのように悩まれていますか?」

「ううむ。それがだな――」


 重三郎はシャーロックの氏素性を話さず、画風についての悩みだけ告げた。

 つまり、どうしても人物画が死体のようになってしまう――


「手前は絵のことが分かりません。大旦那様のように芸術を解する男じゃありませんから」

「それは重々分かっている。しかしお前が奇貨居くべしが見抜ける者だとは知っている」

「お褒めいただきありがとうございます。そんな手前の提案なのですが……絵師の問題ならば絵師に解決してもらえばよろしいのではないでしょうか?」


 その提案は盲点だった。シャーロックのことは誰にも言えないが、悩み自体は打ち明けることができる。自分の知恵が足りなければ他の者に頼るのが道理だ。


「そうか……勇助、でかしたぞ!」


 重三郎は立ち上がって部屋から出て行く。

 勇助は「まだ報告は済んでおりませんよ!」と焦った声を出した。


「良い! お前に任せた!」


 勇助は追いかけようか迷ったが、ああなってしまった重三郎は止められないと長年の付き合いで分かっていたので、その場に留まりため息をつく。


「困ったお人だ。自分の商売よりも他人を優先するとは……ま、仕方ないな」


 そこが大旦那様の魅力なのだなと思い返し、勇助は店先に向かった。手代や奉公人に指示を出すためだ。



◆◇◆◇



「ごめんください。師匠はいらっしゃいますか?」


 工房に訪れた重三郎は弟子の一人に在宅かどうか訊ねると「師匠は今休息しております」と丁寧に応じられた。


「お呼びいたしましょうか?」

「いや、わしが向かいます。お構いなく」


 何度も訪れているので勝手知ったる工房だ。迷いなく奥へ向かうと、そこには絵師が茶を飲んで休んでいる。


 ちょうど四十の男で町人風の髷を覆うように大きな手拭いをしていた。紺色の着物を着て、目は鋭く鷹のようだった。口髭が立派に備わっていて手入れを欠かさないでいるのが分かる。そんな男は先ほどまで描いていたであろう己の作品をじっと見ていた。どこか気に入らないのか眉間に皴が寄っている。


 絵は美人画で艶やかに女が描かれていた。しかもシャーロックと異なり生きている。頬に紅が差していて、目の輝きも美しい。


「師匠。お久しぶりですね」

「なんだ蔦重さん。あなたって人は一時期何度も来たくせに、ここのところばったり来なかったじゃないですか。不義理にも程がある」


 蔦重とは重三郎のことである。

 男は重三郎を批難しているが、口元は笑っている。来訪を歓迎しているみたいだった。


「すみませんでした。手前も長崎へ行かねばならず、帰った後も忙しくて挨拶が遅れました」

「商売に勤しむのは結構ですよ。あなた方版元がいなければ絵を売ることができませんから。ま、ただの冗談と受け取ってください」


 そこでようやく重三郎を見る絵師。

 絵を脇に置いて、置かれていた座布団を指差し「どうぞ」と勧める。

 重三郎は座布団の上に座って「ありがとうございます」と礼をする。


「茶でもいかがですか?」

「いえ、結構です。実は師匠に教えていただきたいことが――」

「だから師匠はやめてくださいと何遍も言っているじゃありませんか」


 男は苦笑して「確かに私は弟子を抱える身ですが」と言う。


「蔦重さんに言われると変にかゆくなります。いつも通りに呼んでください」

「そうですか。それでは――」


 重三郎は姿勢を正して男の名を呼んだ。


「どうかお知恵を貸してください――喜多川歌麿さん」

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