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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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学習

 お雪がシャーロックの世話を始めて三日が経った。言葉の通じない異国人と接するのは骨が折れると彼女は思っていたが、案外難しくない。


 シャーロックが素直で従順であることが幸いし、苦労をかけることはなかった。一日中絵を描く以外に何の興味もない。少なくともお雪にはそう見えた。だから三食と風呂と寝具の用意さえすれば問題はない。


 それにシャーロックの学習能力と察しの良さも上手く作用した。箸の使い方がままならなかったが、お雪がこう使うのだと手本を見せるとすぐに習得したのだ。三日経った今では自由自在に料理をつかめる。


 その習得の早さをお雪は不気味に思った。手先が器用すぎる――日の本の者でも箸がままならないのが少なからずいるのに、綺麗な箸使いで煮っころがしを取る様は長年に渡って慣れているように見えてしまう。重三郎から旅の最中は匙を使って食していたと聞かされていたのだが。


 とにかくシャーロックが物覚えの良い青年――正確な年齢は分からないがお雪よりは年下に見える――だということは疑いもない。身体能力は分からないがその辺の同世代よりは頭が良かった。言葉が通じなくても身振り手振りで教えたら理解を示すのがその証拠だ。


「それでも、言葉が通じないのは厄介ね……」


 お雪がそうこぼすのは異国人のシャーロックが日の本の人間と違うからだ。当たり前のことだが、異国との習慣の違いが表れている。

 些細なことだがいただきますと言わずに十字を切る仕草をしてから食事をし出すのは、お雪には奇妙に見えた。その程度ならば問題ない。しかし決定的な違いが出てきたとき対応できるかどうか。お雪の心に不安が積もっていく。


「そうねえ……言葉、教えないと駄目かも。というより、教えないと目が離せないわ」


 今のところ、外に出たがる素振りは見せないシャーロック。

 だからと言って目を離すことなどできない。

 お雪は自分の神経が磨り減る前に対策しなければならないと考えた。


「シャーロック。ちょっといいかしら?」


 部屋に訪れてまたひたすら絵を描いているシャーロックに話しかけたお雪。

 一応、絵を描いていてもお雪の声には反応するようになっていたので、筆を止めて不思議そうな顔になる。


「日の本言葉を教えるわ。まずはこれを見て」


 そう言って見せたのはいろは歌が書かれた紙。

 お雪が書いたもので、一文字ずつ平仮名で綺麗に区切られている。

 シャーロックはお雪のほうに向いた。青い眼にじっと見つめられると少し恐ろしいが、構わずに「まずはこれを覚えて」と『い』を指差す。


「これは『い』よ」

「……コレハイヨ?」

「えっと、違うわ……そっか。工夫しないと駄目ね」


 全部つなげて言うと『い』という文字が伝わらない。

 お雪は少し考えて「これは、『い』、よ」と言う。


「……イ?」

「そうよ! これは、『い』、よ!」

「……『イ』!」


 シャーロックは描きかけの絵の裏に『い』と書いて何度も口ずさむ。

 お雪は安堵して「今度は、『ろ』、よ」と続けた。

 こうして『ちりぬるを』まで教えたとき、シャーロックが唐突に絵を描き始める。


「えっと、まだ残っているんだけど……」


 お雪が困惑する中、シャーロックが見せてきたのは山の絵だった。

 川と日が書かれていて誰がどう見ても分かるものである。

 シャーロックは無言で山を指差した。


「それは、山、だけど……」

「ヤマ、ヤマ、ヤマ……」


 何回か繰り返した後、今度は川を指差すシャーロック。

 当然、お雪は川と答えた。

 そして日を指すとお雪もまた「お日さま」と返した。


「オヒサマ、オヒサマ……」

「もしかして、言葉を覚えようとしているの?」


 いろは歌で文字を知るよりも言葉は習得しやすいかもしれない。

 けれども、それには限界がある。

 シャーロックが知らなくて描けないもの、例えるなら日の本の文化などは難しい。ある程度説明が必要になる。その説明のための言葉をどう習得するのかが問題だ。


「…………」


 するとシャーロックがまた絵を描き始める。

 いや、絵というよりは家紋に近い――お雪にはそう思えた。

 円を中心に五つの花弁が二重に囲んでいる。それだけ見れば何らかの花だが、その花の下に十字が敷くように描かれていた。奇妙な図である。

 シャーロックが何度もその図を指差した。急かされたお雪は答えが分からなかったので素直に言う。


「それはなに?」


 それを聞いたシャーロックはやったと言わんばかりに拳を高く掲げた。

 明らかに喜んでいた。お雪は何故そんな反応を見せるのか判然としなかった。


「ねえ、シャーロック。どうしたの?」

「ソレハナニ?」


 シャーロックが示したのは持っていた筆だった。

 よく分からないまま、お雪は「それは、筆、よ」と答えた。


「フデ、フデ……フデ!」


 シャーロックは嬉しそうに笑った。

 ようやく自分の相棒の名が知れて嬉しいのだろう。

 一方のお雪は何が何だか分からなかった。



◆◇◆◇



「なるほどな。もしかするとシャーロックはわしの想像よりも賢いのかもしれぬ」


 明くる日の昼、別宅にやって来た重三郎がお雪の報告を聞いて感心したように頷いた。

 まだよく分かっていないお雪は「どういうことですか?」と訊ねる。


「言葉を知るのに重要なのは物の名だが、それよりも重要なのは名の訊ね方だ。それさえ分かればどんなものでも訊くことができる」

「あっ。なるほど……」


 子供が親に物を訊ねるように、シャーロックもまたお雪に言葉を習っていた。いや、習うというより倣うと言い換えたほうが正しい。真似をしているだけだが、それが恐ろしい早さで習得している。


「義父上、シャーロックは何者なのでしょうか? 異国人とはいえ、あそこまで……」


 賢いと言うべきか、異常と言うべきか。

 その判断がつかなかったので曖昧に語尾を濁してしまったお雪。

 重三郎は「皆目分からぬ」とため息混じりに答えた。


「もし断れば、わしは斬られていた。しかし中川様に詳しく訊くべきだった」

「義父上……」

「しかしな。わしはシャーロックに可能性を感じている」


 今、重三郎とお雪の傍にシャーロックはいない。例によって例のごとく、奥の部屋でひたすら絵を描いている。だからこそ言えることがあった。言葉がまだほとんど通じなくても、本人の前では言えない本音が素直に言えた。


「何か凄いことをしそうなんだ。後世に残るような傑作を描くような気がする」

「それは義父上の審美眼からですか? それともただの勘ですか?」

「両方だ。しかし勘が理由として勝っている」

「……義父上の勘はよく当たりますからね」


 ことさら芸術方面における勘はかなり当たる。今までの経験もあるけれど、商人としての嗅覚が鋭いのだろう。


「ア。コ、コンニチハ……」


 そこへシャーロックがやって来て、重三郎とお雪に対して挨拶をした――経緯を考えると物凄い進歩である。重三郎はにこやかに「こんにちは」と返した。


「……ジューザブロー」

「わしの名まで言えるようになったのか……」


 感慨深い気持ちになった重三郎。

 そしてその場に座って今度はお雪に「オユキ……」と言う。


「凄いわシャーロック! 話せるようになるなんて驚きだわ!」

「コレヲ、ドウゾ……」


 そう言って見せたのは――美しい薔薇の絵だった。おそらく異国の花であろうとお雪は推測する。

 墨を使われているが陰影を使って細部を描き込んでいた。花びらにみずみずしさまで感じられる。それでいながら何故か情熱を思わせた――


「くれるなら貰うけど、どうして私に?」


 怪訝に思うお雪にシャーロックは頬を掻きながら、少しだけ照れくさそうに、覚えたての日の本言葉で言う。


「イツモ、アリガトウ」

「えっ?」

「ゴハン、オイシイ」


 お雪の胸が次第に熱くなる。

 泣きそうになるのをこらえて、お雪は「別にいいわよ」と素っ気ない態度を取った。


「どうせ、あと少しでいなくなるんだから」

「ウン? ソレハナニ?」

「なんでもないわよ」


 二人のやりとりを微笑ましく思いながら、重三郎はお雪から渡された、シャーロックが描いた図――紋章を見た。

 綺麗で均整の取れた紋章なのに、どこか禍々しいものを感じる。

 それが優れた審美眼を持つ重三郎の感想だった。

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