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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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写楽

 四月のからっとした晴れの日だった。

 別宅の庭にいる重三郎は、焚き火の前で包み紙にくるまった、天草四郎の旗を眺めていた。


 この旗が作られたのは、一揆を起こしたキリシタンの抵抗だったのだろう。後世に残るものを作れば自分たちが戦った証となる。それは確かに生きていたという証でもある。

 それを思えば心苦しいが――重三郎は焚き火に旗を投げ入れた。パチパチと音を立てて燃えていく。同時に旗に仕込まれた幕府とオランダの契約書も灰となる。


「わしも後世に残るものを作ろうとしている。だが――これは残してはならぬものだ」


 一人呟く重三郎。

 応じる者は誰もいない。

 彼らは去ってしまった――



◆◇◆◇



「手前が調べたところ、老中様との癒着が見つかりました――中川様」


 長崎出島の奉行所。

 顔が汗まみれになっている、長崎奉行の中川忠英に対し、証拠の書状の束を渡す重三郎。震える手で中身を確認し、全て間違いないと分かると「どうやって、調べた?」と訊ねる。


「手前の信頼する番頭が手に入れましてね。どうやって調べたのかは知りませぬ」

「おぬしは、このわしを脅すのか?」

「そう捉えてもらってもけっこうです」


 あくまでも無表情な重三郎。

 中川は「わしとしては、この場でおぬしを斬り捨てるという手もある」と必死の抵抗をした。


「手前を斬れば――不正が世間に公表される手はずとなっています」

「命がけで、事に臨むと申すか……」

「ええ。手前の頼みを聞き入れてくだされば、決して暴露いたしません」


 中川は唇を噛み締めて「頼みとはなんだ?」と不承不承といった風に訊く。


「念入りに断れないようにしているのだ。ろくでもない頼みであろう?」

「流石でございますね。ええ、頼みというのはシャーロックのことです。彼をエゲレスに帰らせてあげてください」


 エゲレスの者であるシャーロックがオランダ船に乗るというのは正規の方法では不可能に近い。つまり、密航させろと重三郎は言っているのだ。


「己の進退と法度を破ること。秤にかけろと言うのだな」

「中川様の権力ならば、簡単なことでしょう?」

「……あい分かった。シャーロックをエゲレスに連れ戻そう。約束する」


 言質を取った重三郎は「ありがとうございます」を形だけ頭を下げた。

 場の緊張感が無くなり、弛緩した空気が漂う――それを見計らって「それに伴い、もう一つだけお願いがございます」と重三郎は言った。


「なんだと? まだ申すか!」

「今度は見返りを用意しました。五百両です」

「ご、五百!? 正気か!? い、いや、わしに何をさせるつもりなのだ!?」


 大金を手に入れるよりも、無理難題を聞かされることが厳しいという態度の中川。

 重三郎は「中川様には容易いことでございます」と続けた。


「一人の女をシャーロックと共に密航させてほしいのです」

「それこそ、正気を疑うぞ?」

「手前の大事な娘の頼みなのです。聞き入れてください」

「……その娘がつらい思いをするだけだ」


 中川の忠告に重三郎は「そうでしょうな」と頷いた。


「それでも、手前は娘の意思を尊重してやりたいのですよ」


 その後、細かいやりとりを経て――二人の密航が決まった。

 それは重三郎との別離を意味していた。



◆◇◆◇



「このオランダ船に乗れば故郷まで連れてくれる。安心しろ」

「ジューザブロー、ワタシ、サビシイ……」


 船出の朝。

 最後の挨拶を交わすシャーロックと重三郎、お雪の三人は寂しさが顔に出ていた。

 当然だが、彼らが再会することはない。そういう別れなのだ。


「しかし、お前もシャーロックと共にエゲレスへ行くとはな。やはり情が移ったのか?」

「そうですね……長く共にいれば移るものです」


 そう語るお雪は神妙な顔だった。

 救ってくれた義父と会えなくなるのを惜しんでいる――


「オユキサン、ホントニイイノ?」

「いいに決まっているじゃない……実を言えば、シャーロックから離れようとしていたの」

「ドウシテ?」

「私のような女、あなたと一緒にいる資格なんてないと思ったからよ」


 シャーロックが否定する前に「でもね、こう思ったのよ」とお雪は微笑んだ。


「あなたと一緒にいて、とても楽しかった。それこそ過去を忘れるくらいに。だから――離れたくないって」

「オユキサン……」


 二人が見つめ合う光景に、重三郎はお雪が幸せになってくれて良かったと心から嬉しがった。ようやく、彼女は前に進める――


「さあ、出航だ。未練はないか?」

「……ジューザブロー!」


 シャーロックは重三郎の手を握った。

 重三郎もまた応じるように力を入れた。


「ワタシ、ジューザブロー、デアエテヨカッタ! ホントニ、アリガト!」


 泣きたくなるのをぐっとこらえて、重三郎は「わしの台詞だ……」と呟く。


「達者でな。エゲレスまでは遠い。元気でやるんだぞ!」

「――ウン!」


 そうして、シャーロックとお雪はエゲレスへと旅立った。

 小さくなる船に重三郎は手を振った。見えなくなっても振り続けた。


「さらばだ! 東洲斎写楽!」



◆◇◆◇



 重三郎は今、燃え尽きた旗を見て思う。

 もし後世にシャーロックの作品が評価されたら、それを世に出した自分の名が合わさって語られることになるのかもしれない。

 それを想像すると――痛快でたまらない。

 あの素晴らしい作品と関われるのだから。


「シャーロック、お前は今、何を描いているんだろうな……」


 ふと見上げた重三郎。

 シャーロックの眼のように青く、シャーロックの髪のように輝いた空がそこにあった。


 数年後、蔦屋重三郎は脚気によりこの世を去ることになる。

 晩年は不遇とされていたが、その死に顔はとても満足そうなものだった。


 番頭の勇助は蔦屋重三郎の名を継ぎ、二代目となる。

 家業の版元を潰すことなく、かといって広げすぎもしない堅実な商売を行なった。


 勝川春朗はその後、葛飾北斎と名を改める。

 二代目の蔦屋重三郎と組んで数々の傑作を世に出した。

 そして時の将軍、徳川家斉の目前で絵を披露するまでとなった。

 しかし、彼はそれに満足せずに絵を描き続けた。


 北斎の娘、お栄は健康を取り戻し、立派に成長した。

 父と同じ絵師となり、葛飾応為の名は後世まで伝わっている。


 守屋の行方は知られていない。

 復讐を果たせなかった彼が、いったいどんな人生を歩んだのか……


 そして、シャーロックとお雪は――


「シャーロック。あなたはいつも楽しく絵を描いているわね」


 美しい木々に囲まれた、小さな家。

 紙に向かい合って楽しげに風景を写す様は、まさしく写楽の名に相応しい。


「オユキサン。ワタシ、エヲカクノ、スキ」


 シャーロックは満面の笑みで応じた。

 お雪もまた、幸せそうに微笑んだ。


「サア、コッチニキテ。オユキサン、カカセテ――」

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