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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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21/31

酩酊

 別宅に訪れた重三郎は、奥の間で真っ白な紙に向かい合っているシャーロックに「どうやら悩んでいるようだな」と話しかけた。

 視線を紙から外さずにシャーロックは頷いた。

 重三郎は手に持っていた酒瓶を胸まで持ち上げた。


「どうだ? 一杯やらぬか?」

「オサケ、ワタシ、コノマナイ」

「そうか。ならば一人で勝手にやらせてもらう」


 二つ用意していた湯飲みを机に置き、一つにとくとくと酒を注ぐ。

 上等な清酒がきらきらした水面を生み出す。

 重三郎はゆっくりと口に運び、静かに飲んでいく。


「……美味いが酔えそうにないな。あまり楽しくもない」

「ワタシ、ノンデナイカラ?」

「違うな……お雪はどこだ?」


 シャーロックは「オユキサン、カイモノ」と答えた。時刻は買い物時の夕暮れだった。昨日の雨が嘘のように晴れていた。重三郎は酒瓶を傾けて注いだ。


「お雪と何かあったのか? それとも……まさか守屋が来たのか?」

「……オユキサン、ナイテタ。アトデ、モリヤトアッタ、キイタ」

「…………」


 どうして泣いていたのか。

 守屋がお雪に何を言ったのか。

 気になることだらけだった。しかし重三郎は何も言わずにシャーロックの言葉を待った。


「オユキサンノカコ、キイタ……」


 長い沈黙の後、シャーロックはそれだけ言った。

 深いため息をついた重三郎は「あの子が自ら言ったのか」と感想を漏らした。

 驚きはなかった。いつか言うだろうと思っていたからだ。


「どう思った?」

「カナシカッタ。オユキサン、ツラソウダッタ」

「だろうな」

「デモ、ワタシ、ナニモデキナイ。トテモ、クヤシイ」


 シャーロックは見ていた紙を両手で取って――くしゃりと握った。

 しわが広がって、そのまま丸めていく。

 彼の怒りを表しているようだった。


「カケナカッタ。オユキサンノタメニ、カケルハズダッタ」

「一年前は描けたではないか」

「アレハ、ワタシノタメ。ヒトノタメ、カイタコトナイ」


 相当な屈辱を感じているようで、シャーロックの顔は怒りで歪んでいた。


「オユキサン、キニシテイナイ、イッタケド。ザンネンソウ、ダッタ……」

「描けなかった理由を、お前は知りたいか?」

「……ウン」

「それは――心を乱されていたからだ」


 数々の絵師を見てきた重三郎は、自身が思う最高の人物が言っていたことを思い出していた。


「喜多川歌麿という人が言っていた。何か思い煩うことがあれば、筆に出てしまう。だからなるべく心穏やかにしなければならない」

「ワタシ、カケナカッタノハ……ソレナノ?」

「わしは絵師ではないが、間違っていないと確信する」


 それから一転して「お前は楽しそうに絵を描く」と羨望を交えた口調となる。


「絵を描くのが楽しくて仕方がないのだろう。己が好きな生業を持てるのは幸せなことだ」

「シアワセ……デモ、ワタシハ……」

「お雪を救えなかった……それは悩んでいるからだ」


 悩みは筆に迷いを生じさせる。

 先ほどの歌麿の話と合わせて、重三郎は言いたかったのだろう。


「自分のために楽しく絵を描く。他人のために悩んで絵を描く。雲泥の差だ」

「ワタシ、エデスクエル。オモッテタ。デモ、デキナカッタ」

「思い上がりとまでは言わないが、ちと目論見が外れたな」


 おどけて言う重三郎に、シャーロックは「ソウダネ」と笑って答えた。

 少しだけ和やかな空気となる。


「お前はいつから絵を描き始めた?」


 不意に重三郎が気になっていたことを訊ねる。

 シャーロックは「ゴサイ、クライ」と手のひらを見せた。


「ジメンニ、エヲカク。ハジメハソレ」

「初対面のときもお前は地面に描いていた。まるで本物の町のようだった」

「ソダテノオヤ、イロヲクレタ。サイショハ、クロ」


 目を細めるシャーロックは思い出を振り返っていた。親のいない少年期だが、それだけはきらきらした瞬間だと感じているようだ。


「ソレカラ、アカ、アオ。チョットズツ、フエタ。カクノガモット、タノシクナッタ」


 重三郎は酒を飲みながら、楽しそうに語るシャーロックの話を聞いていた。

 誰しも、良い思い出を語るのは楽しいものだ。

 つらい現実を忘れさせてくれるから。


「ダケド、ココニクルマデ、ヒトノエ、カケナカッタ。シタイニナル」

「ふむ。それを克服できてどう思った?」

「マスマス、エヲカク、タノシクナッタ」


 嬉しそうな顔になるシャーロックに「その気持ちを忘れるなよ」と重三郎は忠告した。


「楽しみがなくなれば、人生は味気ないものになる。酒と一緒だな」

「ソウナンダ。トコロデ、ジューザブロー」

「わしがどうかしたか?」


 顔が赤くなっている重三郎に、シャーロックは「クライカオ、シテイタ」と指摘する。


「ココニクルマエ、ナニカアッタ?」

「……わしが信頼している者に、お前のことが知られてしまった」

「ダイジョウブナノ?」


 自分がここにいてはいけない。それが重々分かっているシャーロックは心配になったが、重三郎は短く「あやつは言わない。黙ってくれる」と言って酒をあおった。


「ま、わしが頑なだったこともある……使用人とシャーロック、秤にかけたとき、選んだのは――お前だったからだ」

「ドウシテ、ジューザブロー、ヤサシイ?」

「優しい、か……百人を超える、店を切り盛りしてくれる者たちよりも、一年間ほどしか関わりのない異国人を選んだわしが、優しいわけがなかろう」


 重三郎は勇助に言われた言葉を思い返していた。


『大旦那様は、間違っている! 今に天罰が降りますぞ!』


 怒声を発して、勇助は店から飛び出した。

 追いかけようとはしなかった。頭を冷やせば戻ってくると確信していた。

 だけど、言い知れない虚しさが重三郎を襲った。

 その理由は痛いほど身に沁みていた。


「なあ、シャーロック。わしは間違っている――とは言えんのだよ。店の主は間違っていても、間違っているとは言ってはならん」

「……ソレハ、ドウシテ?」

「わしについて来てくれる者たちに対する侮辱となるからだ」


 シャーロックに言い聞かせているわけではない。

 己を戒めるために、口に出しているのだ。


「もちろん、反省や後悔はする。だがな、たとえ損をしても店の者の前では堂々としなければならん。わしが落ち込めば店の者は動揺する。そうなれば店の売り上げも落ちていく。悪循環だ。だからこそ、常に正しく見せかける必要があるのだ」

「マルデ、キング、ミタイ」

「うん? キングとはなんだ?」

「イチバン、エライヒト。ヒノモトナラ、ショーグン?」


 それを聞いた重三郎は愉快そうに「あはは。わしが将軍様のようか」と笑った。

 商売人と為政者は異なるが、上に立つ者の心構えとしては同じなのかもしれない。


「ソウイエバ、オユキサン、ドウヤッテシリアッタ?」

「ああ。元々、わしは吉原の生まれでな。その茶屋の養子となった。縁があって遊郭に出入りしていたのだ。そうそう。言っておくが、お雪の客になったことはない」

「ソウナンダ……」

「安心したか?」


 重三郎の意味深な笑みにきょとんとするシャーロック。


「アンシン? ドウシテ?」

「お前、お雪のこと好いておるのだろう?」


 シャーロックは「ウン。スキダヨ」と素直に答えた。

 重三郎は、なんだ恋も知らぬのかと拍子抜けした気分となった。


「ま、良い。いずれ自覚するときも来るだろう……」

「ワカラナイケド、バカニシテル?」

「ふふふ。馬鹿にはしておらぬよ」


 その後、お雪が帰る頃には重三郎は泥酔していた。

 シャーロックもまた、吹っ切れた顔になっていた。


「何を話したのか、分からないけど……気に病んでいないで良かったわ」


 雑魚寝をしている重三郎に掛け布団をしつつ、シャーロックが奥の間で絵を描いているのを分かった上で、お雪は一人呟く。


「いずれ私は――シャーロックから離れないといけないわね」



◆◇◆◇



「何故、大旦那様は……ちくしょう! それもこれも、写楽のせいだ!」


 その日の夜のことだった。

 酒場で盛大に飲んだ後、勇助は一人愚痴りながら自分の家へと帰っていた。

 かなり酔っているのか千鳥足が酷過ぎた。

 壁にぶつかり、時によろけて、それでも歩みを止めなかった。

 そこへ――


「あなた――蔦屋の勇助さんですね?」


 待ち伏せていたのか、前方で立ちふさがるようにいたのは守屋だった。

 酔っているが、相手が武士だと分かった勇助は「どなたさまですか?」と訊ねる。


「守屋、と申します。私は……しがない役人ですよ」

「お役人様が、手前に何の用ですか?」


 壁にもたれて話を聞く勇助。

 守屋は口元を歪めて「とある男の話をしましょう」と語り出す。


「その者はエゲレスという国で生まれ、ある組織に育てられました。その組織は男に命じました。日の本で旗を手に入れろと。男は素直に応じ、オランダ船に乗って江戸まで来ました」

「……まさか、その男とは」

「ええ。先ほどまであなたが目の仇にしていた――」


 守屋は勇助に近づき、耳元でささやく。


「――東洲斎写楽。本名はシャーロック・カーライル、ですよ」

「あ、あなた様は……いったい、何者ですか……」


 酔いが冷めてしまった勇助に、口元を歪めたまま守屋が「私が何者であるかなど、どうでもいいでしょう」と肩に手を置く。


「それよりも、あなたに良い話を持ってきました」

「な、なんでしょうか?」

「シャーロックを排して、蔦屋重三郎殿の眼を覚ます方法ですよ」


 それは勇助が酒を飲みながら考え続けていたことだった。

 どうにかしないといずれ役人に判明してしまう。

 そうなれば――蔦屋は取り潰しになる。


「お、教えてください!」

「それは、シャーロックと勝負すること、です」


 守屋の言葉は甘くてとろけそうなほどに、勇助の脳髄に染み渡った。


「絵の優劣を決める勝負をする。それで勝てばシャーロックなどたいしたことはないと、蔦屋重三郎殿も気づくでしょう。さすれば保護する理由も無くなる」

「それは良い考えですが……あいにく、手前は絵を描く才が……」

「あなたが描くのではありません。あなたには別の役割があります」


 勇助は自らを失っていた。

 そんな人間の心の隙間に、守屋は実に上手く入り込む。


「シャーロックを排除した後、あなたは他の番頭を抱き込んでください」

「抱き込んで……ま、まさか!?」


 勇助もまた重三郎に一目を置かれる男だ。

 守屋の狙いを察してしまった。


「素晴らしいですね。あなたの考えているとおりです」

「はあ、はあ、なんてことを……」


 呼吸が荒くなっている勇助を楽しそうに見ながら、守屋は歪ませた口で言う。


「蔦屋重三郎を隠居させなさい。そしてあなたが継ぐのです――」

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