酩酊
別宅に訪れた重三郎は、奥の間で真っ白な紙に向かい合っているシャーロックに「どうやら悩んでいるようだな」と話しかけた。
視線を紙から外さずにシャーロックは頷いた。
重三郎は手に持っていた酒瓶を胸まで持ち上げた。
「どうだ? 一杯やらぬか?」
「オサケ、ワタシ、コノマナイ」
「そうか。ならば一人で勝手にやらせてもらう」
二つ用意していた湯飲みを机に置き、一つにとくとくと酒を注ぐ。
上等な清酒がきらきらした水面を生み出す。
重三郎はゆっくりと口に運び、静かに飲んでいく。
「……美味いが酔えそうにないな。あまり楽しくもない」
「ワタシ、ノンデナイカラ?」
「違うな……お雪はどこだ?」
シャーロックは「オユキサン、カイモノ」と答えた。時刻は買い物時の夕暮れだった。昨日の雨が嘘のように晴れていた。重三郎は酒瓶を傾けて注いだ。
「お雪と何かあったのか? それとも……まさか守屋が来たのか?」
「……オユキサン、ナイテタ。アトデ、モリヤトアッタ、キイタ」
「…………」
どうして泣いていたのか。
守屋がお雪に何を言ったのか。
気になることだらけだった。しかし重三郎は何も言わずにシャーロックの言葉を待った。
「オユキサンノカコ、キイタ……」
長い沈黙の後、シャーロックはそれだけ言った。
深いため息をついた重三郎は「あの子が自ら言ったのか」と感想を漏らした。
驚きはなかった。いつか言うだろうと思っていたからだ。
「どう思った?」
「カナシカッタ。オユキサン、ツラソウダッタ」
「だろうな」
「デモ、ワタシ、ナニモデキナイ。トテモ、クヤシイ」
シャーロックは見ていた紙を両手で取って――くしゃりと握った。
しわが広がって、そのまま丸めていく。
彼の怒りを表しているようだった。
「カケナカッタ。オユキサンノタメニ、カケルハズダッタ」
「一年前は描けたではないか」
「アレハ、ワタシノタメ。ヒトノタメ、カイタコトナイ」
相当な屈辱を感じているようで、シャーロックの顔は怒りで歪んでいた。
「オユキサン、キニシテイナイ、イッタケド。ザンネンソウ、ダッタ……」
「描けなかった理由を、お前は知りたいか?」
「……ウン」
「それは――心を乱されていたからだ」
数々の絵師を見てきた重三郎は、自身が思う最高の人物が言っていたことを思い出していた。
「喜多川歌麿という人が言っていた。何か思い煩うことがあれば、筆に出てしまう。だからなるべく心穏やかにしなければならない」
「ワタシ、カケナカッタノハ……ソレナノ?」
「わしは絵師ではないが、間違っていないと確信する」
それから一転して「お前は楽しそうに絵を描く」と羨望を交えた口調となる。
「絵を描くのが楽しくて仕方がないのだろう。己が好きな生業を持てるのは幸せなことだ」
「シアワセ……デモ、ワタシハ……」
「お雪を救えなかった……それは悩んでいるからだ」
悩みは筆に迷いを生じさせる。
先ほどの歌麿の話と合わせて、重三郎は言いたかったのだろう。
「自分のために楽しく絵を描く。他人のために悩んで絵を描く。雲泥の差だ」
「ワタシ、エデスクエル。オモッテタ。デモ、デキナカッタ」
「思い上がりとまでは言わないが、ちと目論見が外れたな」
おどけて言う重三郎に、シャーロックは「ソウダネ」と笑って答えた。
少しだけ和やかな空気となる。
「お前はいつから絵を描き始めた?」
不意に重三郎が気になっていたことを訊ねる。
シャーロックは「ゴサイ、クライ」と手のひらを見せた。
「ジメンニ、エヲカク。ハジメハソレ」
「初対面のときもお前は地面に描いていた。まるで本物の町のようだった」
「ソダテノオヤ、イロヲクレタ。サイショハ、クロ」
目を細めるシャーロックは思い出を振り返っていた。親のいない少年期だが、それだけはきらきらした瞬間だと感じているようだ。
「ソレカラ、アカ、アオ。チョットズツ、フエタ。カクノガモット、タノシクナッタ」
重三郎は酒を飲みながら、楽しそうに語るシャーロックの話を聞いていた。
誰しも、良い思い出を語るのは楽しいものだ。
つらい現実を忘れさせてくれるから。
「ダケド、ココニクルマデ、ヒトノエ、カケナカッタ。シタイニナル」
「ふむ。それを克服できてどう思った?」
「マスマス、エヲカク、タノシクナッタ」
嬉しそうな顔になるシャーロックに「その気持ちを忘れるなよ」と重三郎は忠告した。
「楽しみがなくなれば、人生は味気ないものになる。酒と一緒だな」
「ソウナンダ。トコロデ、ジューザブロー」
「わしがどうかしたか?」
顔が赤くなっている重三郎に、シャーロックは「クライカオ、シテイタ」と指摘する。
「ココニクルマエ、ナニカアッタ?」
「……わしが信頼している者に、お前のことが知られてしまった」
「ダイジョウブナノ?」
自分がここにいてはいけない。それが重々分かっているシャーロックは心配になったが、重三郎は短く「あやつは言わない。黙ってくれる」と言って酒をあおった。
「ま、わしが頑なだったこともある……使用人とシャーロック、秤にかけたとき、選んだのは――お前だったからだ」
「ドウシテ、ジューザブロー、ヤサシイ?」
「優しい、か……百人を超える、店を切り盛りしてくれる者たちよりも、一年間ほどしか関わりのない異国人を選んだわしが、優しいわけがなかろう」
重三郎は勇助に言われた言葉を思い返していた。
『大旦那様は、間違っている! 今に天罰が降りますぞ!』
怒声を発して、勇助は店から飛び出した。
追いかけようとはしなかった。頭を冷やせば戻ってくると確信していた。
だけど、言い知れない虚しさが重三郎を襲った。
その理由は痛いほど身に沁みていた。
「なあ、シャーロック。わしは間違っている――とは言えんのだよ。店の主は間違っていても、間違っているとは言ってはならん」
「……ソレハ、ドウシテ?」
「わしについて来てくれる者たちに対する侮辱となるからだ」
シャーロックに言い聞かせているわけではない。
己を戒めるために、口に出しているのだ。
「もちろん、反省や後悔はする。だがな、たとえ損をしても店の者の前では堂々としなければならん。わしが落ち込めば店の者は動揺する。そうなれば店の売り上げも落ちていく。悪循環だ。だからこそ、常に正しく見せかける必要があるのだ」
「マルデ、キング、ミタイ」
「うん? キングとはなんだ?」
「イチバン、エライヒト。ヒノモトナラ、ショーグン?」
それを聞いた重三郎は愉快そうに「あはは。わしが将軍様のようか」と笑った。
商売人と為政者は異なるが、上に立つ者の心構えとしては同じなのかもしれない。
「ソウイエバ、オユキサン、ドウヤッテシリアッタ?」
「ああ。元々、わしは吉原の生まれでな。その茶屋の養子となった。縁があって遊郭に出入りしていたのだ。そうそう。言っておくが、お雪の客になったことはない」
「ソウナンダ……」
「安心したか?」
重三郎の意味深な笑みにきょとんとするシャーロック。
「アンシン? ドウシテ?」
「お前、お雪のこと好いておるのだろう?」
シャーロックは「ウン。スキダヨ」と素直に答えた。
重三郎は、なんだ恋も知らぬのかと拍子抜けした気分となった。
「ま、良い。いずれ自覚するときも来るだろう……」
「ワカラナイケド、バカニシテル?」
「ふふふ。馬鹿にはしておらぬよ」
その後、お雪が帰る頃には重三郎は泥酔していた。
シャーロックもまた、吹っ切れた顔になっていた。
「何を話したのか、分からないけど……気に病んでいないで良かったわ」
雑魚寝をしている重三郎に掛け布団をしつつ、シャーロックが奥の間で絵を描いているのを分かった上で、お雪は一人呟く。
「いずれ私は――シャーロックから離れないといけないわね」
◆◇◆◇
「何故、大旦那様は……ちくしょう! それもこれも、写楽のせいだ!」
その日の夜のことだった。
酒場で盛大に飲んだ後、勇助は一人愚痴りながら自分の家へと帰っていた。
かなり酔っているのか千鳥足が酷過ぎた。
壁にぶつかり、時によろけて、それでも歩みを止めなかった。
そこへ――
「あなた――蔦屋の勇助さんですね?」
待ち伏せていたのか、前方で立ちふさがるようにいたのは守屋だった。
酔っているが、相手が武士だと分かった勇助は「どなたさまですか?」と訊ねる。
「守屋、と申します。私は……しがない役人ですよ」
「お役人様が、手前に何の用ですか?」
壁にもたれて話を聞く勇助。
守屋は口元を歪めて「とある男の話をしましょう」と語り出す。
「その者はエゲレスという国で生まれ、ある組織に育てられました。その組織は男に命じました。日の本で旗を手に入れろと。男は素直に応じ、オランダ船に乗って江戸まで来ました」
「……まさか、その男とは」
「ええ。先ほどまであなたが目の仇にしていた――」
守屋は勇助に近づき、耳元でささやく。
「――東洲斎写楽。本名はシャーロック・カーライル、ですよ」
「あ、あなた様は……いったい、何者ですか……」
酔いが冷めてしまった勇助に、口元を歪めたまま守屋が「私が何者であるかなど、どうでもいいでしょう」と肩に手を置く。
「それよりも、あなたに良い話を持ってきました」
「な、なんでしょうか?」
「シャーロックを排して、蔦屋重三郎殿の眼を覚ます方法ですよ」
それは勇助が酒を飲みながら考え続けていたことだった。
どうにかしないといずれ役人に判明してしまう。
そうなれば――蔦屋は取り潰しになる。
「お、教えてください!」
「それは、シャーロックと勝負すること、です」
守屋の言葉は甘くてとろけそうなほどに、勇助の脳髄に染み渡った。
「絵の優劣を決める勝負をする。それで勝てばシャーロックなどたいしたことはないと、蔦屋重三郎殿も気づくでしょう。さすれば保護する理由も無くなる」
「それは良い考えですが……あいにく、手前は絵を描く才が……」
「あなたが描くのではありません。あなたには別の役割があります」
勇助は自らを失っていた。
そんな人間の心の隙間に、守屋は実に上手く入り込む。
「シャーロックを排除した後、あなたは他の番頭を抱き込んでください」
「抱き込んで……ま、まさか!?」
勇助もまた重三郎に一目を置かれる男だ。
守屋の狙いを察してしまった。
「素晴らしいですね。あなたの考えているとおりです」
「はあ、はあ、なんてことを……」
呼吸が荒くなっている勇助を楽しそうに見ながら、守屋は歪ませた口で言う。
「蔦屋重三郎を隠居させなさい。そしてあなたが継ぐのです――」




