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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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19/31

悲惨

「ド、ドウシタノ!? オユキサン! カラダ、ヌレテルヨ!」


 ずぶ濡れの姿で帰ってきたお雪を見て、シャーロックは驚いた。

 ちょうど絵描きの休息だった。奥の間でぼんやりと絵のことを考えていると、ゆっくりとふすまが開いて――お雪が立っていた。


「…………」


 慌てるシャーロックを余所にお雪は黙ったままだった。何の力のない眼で何も無い空間を見ている。感情がないのではなく、全てが虚しいと思っていた。


「……ホントニ、ドウシタノ?」


 シャーロックがお雪に近づいて、肩に触ろうとして――


「気安く触らないでよ!」


 それは怒声ではない。

 明らかな悲鳴だった。

 シャーロックは手を止めて、何も言えなくなる。


「私はね、男が嫌いなのよ! 吐き気がするくらいにね! 汚らわしいわ!」


 シャーロックは自分に対してだけではない、他の誰かに言っていると感じた。

 お雪の過去は知らなくても、その反応は雄弁だった。


「男なんてみんなそう! 欲を満たすだけの、身勝手な生き物だわ!」


 まるで子供が玩具を壊されたときのような、あるいは大事な人が眼の前で死んだような、取り返しのつかない悲しみに支配されていた。


「みんないなくなればいい! 男なんて、クズよ!」


 そこまで言って、お雪は言葉を切った。

 彼女のはあはあと荒い息遣いだけが部屋に響いていた。


「……テヌグイ、モッテクル。オユキサン、ソコニイテ」


 シャーロックは隣の部屋に行こうと、お雪のそばを通った。唇を噛み締めて何も言えずにいる彼女を慮っていた。

 そして手ぬぐいを渡す。だけどお雪は受け取らなかった。視線は下を向いていた。


「……いらないわよ」

「カゼヒク。ソレハダメ」

「別に良いわよ。それにシャーロックには関係ないじゃない」

「アル。オユキサン、シンパイ」

「はっ。どうせ、食事の用意ができなくなるからでしょ」

「チガウ。オユキサン、カゼヒクト、ワタシ――カナシイ」


 飾らない本音を聞いて、お雪はシャーロックと眼を合わす。

 碧眼がひたひたと濡れていた。


「ナニガアッタノカ、ワカラナイ。デモ、オユキサン、タイセツナヒト。ワタシダケジャナイ。ジューザブローモ、オナジ」


 そこでシャーロックは笑顔になった。

 瞳は今にも涙を流しそうだった。

 それでも、優しい口調で感謝を伝える。


「ワタシ、オユキサンニアエテ、ヨカッタ。イツモ、アリガトウ」


 一年前を思い出したお雪。

 ああ、変わらないのね、この子は――


「シャーロック、私話すわ。私の過去を。全部話す」


 意を決したお雪だが、身体は震えていた。

 濡れているからではない。

 不安があった。シャーロックが自分のことを嫌いになるかもしれないと、考えてしまうのだ。


 けれども、話さないといけないとも思う。

 誤魔化しているつもりはないけど、いつもどこか後ろめたさはあった。

 しかし自分が話して楽になりたいという思いもあった。

 利己的な気持ちもある。それらが入り混じって話そうと決意した。


「楽しい話じゃないけど、聞いてくれる?」

「ウン。キクヨ」


 シャーロックもまた覚悟を決めていた。

 だからこそ、すぐに応じられた。


「ワタシ、オユキサンノコト、シリタイ」



◆◇◆◇



「私は吉原遊郭にいた、遊女なのよ」


 着替え終えたお雪は静かに語り始めた。

 一年間、江戸に暮らしていたシャーロックは吉原のことを知っていた。そして遊女がどんな存在かということも。


 確かに衝撃はあった。

 それでも過去を厭う気持ちが、お雪の中にあることも分かってしまった。

 だからシャーロックは「ソウ……」としか言えない。


「あなたは知らないけど、天明のときに酷い飢饉があってね。私は口減らしのために売られたのよ。ま、結局は親も兄弟も飢えて死んだけど。後で知ったときは……何も思わなかったわ」


 シャーロックと同じ天涯孤独だけれど、まるっきり違っていた。もしも巡り合わせが良ければ、お雪は今も家族と一緒に暮らしていただろう。でもそうならなかった。


「吉原で私は座敷持になった。花魁のように華麗ではないけど、客は取らされた。はっきり言えば――身体を売るのは嫌だった」


 お雪は自らの身体を抱きしめた。

 がくがくと震えている。それを収めようと力を強くする。

 シャーロックは心配だったけど、お雪の言葉を待った。


「一人相手するたびに、私の何か大切なものが失っていく。良い客でも酷い客でも同じ。男は私から奪っていく」


 シャーロックは黙って聞いていた。

 けれど握った拳から血が滲んでいる。


「ある時、私は病になって、子を産めない身体になった。客の相手もできなくなった。店の女主人から罵倒されたのは、今でも覚えているわ」


『役立たず! もうあんたは一生、クズのままだよ!』


 子を産めなくなった女にかける言葉ではなかった。お雪が望んでいたのは優しい言葉だった。だけど、彼女の生きていたところでは当たり前の言葉だった。


「義父上と出会ったのは、全てを失って吉原から逃げ出そうと決意した日だった。番人に捕まって折檻を受ける寸前で、あの人は助けてくれた。しかも身請けして養女にしてくれた……感謝しても足りないくらいの恩を受けたわ」


 それがお雪の人生の転機だった。

 優しい義父と出会えたことは幸福だった。

 けれども、過去は消えなかった。

 まとわりつく羽虫のようだった。


「私は子を成せない。だから義父上のためにしてあげられることは何もないわ。でもね、そんな私を義父上は優しくしてくれた。ご飯を食べさせて、暖かい寝床までくれた。シャーロック、あなたの世話をするようにと言われたときは戸惑ったけど、義父上のためならなんでもやろうって思っていたの」


 お雪の表情が優しくなった。

 シャーロックが好ましく思っている顔だった。

 しかし今は痛々しく感じる。


「だけどね……まさか、あなたにまで情が湧くとは思わなかった。どうしてでしょうね。男が嫌いなはずなのに……不思議よね……」

「ソレハ、オユキサンガ、ヤサシイカラ」


 それは小さな呟きだった。

 シャーロックも聞かせるつもりはなかった。

 お雪は「そんなことないわ」と視線を逸らした。


「私は汚れた女。心まで男に奪われた、哀れな女よ」


 シャーロックは――悩んだ。

 眼の前にいる大切な人をどうやって救えばいいのか。

 自分のことを哀れだと思う彼女をどうやって慰めればいいのか。


 悩んで悩んで悩んだ挙句。

 彼が導いた答えは――


「ワタシ、モウイチド、オユキサン、カクヨ」


 シャーロックにできることは絵を描くことだけだった。

 それしか彼はできなかった。

 それしか彼女を救えなかった。

 それしか彼らはつながれなかった。


「描いてどうするの? そんなんじゃ、私の過去は――」

「ワタシ、カクノ、カコジャナイ。イマ。イマヲカク」


 過去は絶対に変えられない。

 ならば今を描くことで、大切な何かを伝えられるはずだとシャーロックは考えた。


「ウバワレタモノ、トリモドス。ワタシ、ガンバル」

「……いいわ。描いてちょうだい」


 お雪は既に諦めていた。

 どうしようもないほど――閉ざしていた。

 それでもなお、シャーロックに描いてもらうのは、どこか期待しているのかもしれない。

 何かがどうにかなりそうな、そんな希望を待っているのかもしれない。


 シャーロックは描き始めた。

 確かにお雪の人生は悲惨そのものだ。

 だけど、最悪じゃない。

 もしかすると、絵を描いても救われないかもしれない。

 それでも、無駄じゃない。

 今までは不幸だった。それは認めよう。

 しかし、お雪が幸せになっちゃあいけないなんてことはない。

 そんな思いでシャーロックは筆を走らせた――

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