踏襲
「なんと見事な……シャーロックが本当に、この絵を描いたのか……?」
明くる日、別宅に訪れた重三郎はシャーロックが描いたお雪の絵を見て、感嘆の気持ちを抱いた。数多くの絵師の作品を見てきて、審美眼に自信のある彼をして、驚愕するほどの傑作だった。
「ええ。義父上が示された道を見つけたようです」
「いや……示したと言っても、ここまでのものとは想像つかなんだ」
改めて重三郎は絵を眺める。
大首絵自体はよくある構図だ。
しかしここまで歪んで強調して、誇張した絵は初めてだった。
切れ長で面長な顔をしているお雪の特徴をよく捉えている。さりげなく口元のほくろも描かれていて、よく観察していると分かった。
そしてなにより――面白みがあった。以前の死体の絵とは比べ物にならないほど生き生きとしている。見ているこちらも生気を与えられているような感覚がしてきた。
「ふむ……これは世に出すべき絵だ。わしとお前だけで楽しむにはもったいない」
商売人としての嗅覚もあるが、芸術を解し愛している重三郎はシャーロックの絵を世間に知らしめたい欲が出てきた。
クセのある絵なので売れはしないだろう。
しかしいつの日か評価されるときがくる。
採算度外視でも店頭に並べたい。
「今、シャーロックは画風を定着するために絵を描いています。良い題材があれば傑作が生まれるでしょう。しかし――」
お雪は言おうか言うまいか、悩んでいる。
重三郎は「どうした?」と優しく聞いた。
「……この絵だけは、売らないでほしいのです」
「手元に置いておきたいのか?」
「題材になったから、ということもあります。でも、理由としては……」
言いよどむお雪。
催促せずに重三郎は言葉を待った。
「……私のような下賤な女が題材であるのは、シャーロックの評価に影響が出ると思うのです」
意を決して言った悲しい思い込み。
聞いた重三郎は「お前は下賤な女ではない」と無表情になった。
「わしの大切な娘だ」
「今はそうでも、過去は変わりません。そして現実もです」
「だが絵の題材になれた。それもまた現実だ」
重三郎ははっきりと断言した。
それでもお雪の顔は曇ったままだ。
「私は……義父上が救ってくれなければ、今でも地獄にいました」
「…………」
「感謝しておりますが、時折思い出してしまうのです」
腕組みをした重三郎は「お前がそこまで言うのなら、売らないでおこう」と頷いた。
「だが忘れるな。どんな過去があろうと、現実に勝てなくても、明日は必ず来るし、理想を持つことはできる」
「義父上……」
「お前が子を成せぬのは分かっている。しかしだ、それでも幸せになって良いのだ」
厳しく強い口調で重三郎は自分の養女に言い聞かせた。
お雪は静かに手をつき、頭を下げる。
「私のわがままをお聞きくださり、ありがとうございます」
◆◇◆◇
「ところで期限のひと月が過ぎようとしているが、心残りはないか?」
重三郎がしんみりとした空気を変えようと、わざと朗らかに言う。
お雪はすっかり忘れていたようで「そうでしたね……」と俯く。
「今まで苦労をかけたな。後のことは任せよ。もちろん秘密は守ってもらうが」
「……誰に世話を任せるつもりですか?」
「勇助に任せる。まだ話していないが、きっと引き受けてくれるだろう」
「……引き続き、私に続けて任せてもらえませんか?」
思わぬ申し出に怪訝な表情になる重三郎。
お雪は「まだ話していないのであれば、間に合いますよね」と言う。
「それはそうだが……情が移ったのは分かる。しかし危険な務めなのは変わりない。無かったことにして元の生活に戻っていいんだぞ?」
「人との出会いは無かったことにはできませぬ」
お雪の決意は堅い。
重三郎は「そのまま続けてくれるのはありがたい」と言うものの険しい表情になった。
「役人に判明すれば責を負うこととなる。それを承知の上で引き受けるのか?」
「今までの生活と何ら変わりありません。それにシャーロックが寂しがるかもしれませんしね」
「確かにな……あい分かった。これからもよろしく頼むぞ」
「ありがとうございます。誠心誠意、務めさせていただきます」
堅い言葉とは裏腹に弾んだ声で嬉しそうに笑う様を見て、シャーロックのやつは果報者だなと重三郎は鷹揚に頷いた。
「さて。シャーロックの絵を売るためには名が必要だ。いくらなんでもシャーロック・カーライルとそのまま出すわけにはいかん」
「義父上が付けた写楽でよろしいではありませんか」
「写楽だけではちと軽い。屋号も付けたほうが体裁が良いだろう」
重三郎はこほんと咳払いして「実は前々から考えていた」と少し照れながら話し出す。
「ま、シャーロックの絵を売ろうとは考えていなかった。仮に絵師として世に出すのであればと想像していたのだ」
「素直に商売っ気を出せばいいではありませんか」
「わしにも見栄がある……こういうのはどうだろうか」
重三郎は懐から紙を取り出した。既に書いているらしい。お雪は準備周到だわと思いつつ、書かれた文字を見た。
「……とうしゅうさい? これが屋号ですか?」
「ああ踏襲才だ。シャーロックは真似が上手だからな。その才能を表した名だ」
お雪は眉を八の字にして「これはあからさま過ぎませんか?」と苦言を呈した。
「売れそうな名ではありませんよ」
「ふむ……では読みをそのままに漢字を変えてみるか」
墨を用意していろいろと書き連ねていく重三郎。その中でお雪と相談して良さそうに思える名を挙げていく。
「これなんていかがですか――『東洲斎』。なかなか字面が良いと思います」
「そうさのう。悪くない気がするな……」
重三郎は東洲斎の下に写楽と書いた――東洲斎写楽。
異国から来た者の名とは思えない。
重三郎は「よし、これにしよう」と決めた。
「踏襲が得意な者、それでいて時代を踏襲する者――そういった意味合いを知っているのはわしたちだけでいい」
「ええ。きっとシャーロックも納得するでしょう……あ、いけない。私たち、シャーロックに話していませんでしたね」
しまったという顔を重三郎はした。
ぱちんと額に手を置き「しくじってしまったな」と笑う。
「今、絵を描いていると言ったな。終わるまで待とう」
「流石に食事はするでしょうから。義父上はどうします? 一度店に戻りますか?」
「店は勇助たちに任せておる。心配は要らぬよ」
夕方近くになった頃、腹を空かせたシャーロックが奥の間からやってきた。
疲れているが楽しくて仕方がないという顔つきだった。
重三郎は「シャーロック。話がある」と言う。
「ジューザブロー! アナタノオカゲ! ワタシ、カケタ!」
「お雪から聞いている。よくぞここまで到達したものだ」
「ハハハ。アリガトウ!」
シャーロックが嬉しそうに頭を掻く。
重三郎は「一つ頼みがある」とにこやかな顔になった。
「お前の絵を売りたい。構わぬか?」
「ウル? イイヨ。ワタシ、カマワナイ」
あっさりと許したシャーロックに「あまり絵にこだわりがないのか?」と重三郎は驚いた。まだこだわりという言葉の意味が分からないが、言わんとすることは分かったようで「エ、ミンナニ、ミセタイ」と応じた。
「ワタシ、カキタイ。ミンナ、ミタイ。ギブアンドテイク!」
「ぎ、ぎぶ? ……ま、とにかく良いのならいい」
それから重三郎は「お前の名だが」とお雪が晩御飯を運んできたのを横目で見つつ言う。
重三郎の分まで置かれた二膳。そのうち、重三郎には冷酒が用意されている。
シャーロックは十字を切って食べ始めた。
「シャーロックでは売りに出せぬ。そこで東洲斎写楽という偽名を使う。それも構わないか?」
「ウン。ジューザブロー、スキニシテ……ア、ソウダ」
シャーロックは箸を置いて口の中の物を食べ終えてから「オユキサンノエ、トッテオイテ」と頼んだ。
「ああ。それは売らぬよ。しかしどうしてだ?」
「オユキサンノタメニ、カイタカラ」
「……ありがとう、シャーロック」
お雪は照れているらしく、素っ気ない言い方をしてしまう。
シャーロックは「ドウイタシマシテ」と碧眼を輝かせた。
そんな二人を微笑ましく思いつつ、重三郎は自分で酌をした酒をあおった。
こんなに美味い酒は久々だった。




