春好
偶然だがシャーロックたちが行こうとしていた寺――善福寺に勝川春好がいるようで、春朗の言葉どおりすぐに会うことができた。
年少の僧に案内されて、大きな庭の見える縁側に行くと座って眺めている男がいた。
春朗よりも年上だがはっきりとした年齢は不明だ。髪を芝生のように短くしているが僧のように剃ってはいない。エラが張っていて気難しい印象を受ける。すずめが岩や木に止まっているのを面白く無さそうな顔のまま眼で追っていた。
「春好の兄さん。相変わらず座禅も組まずに見ているだけかい?」
気さくに話しかけた春朗。対して男――春好はちらりと一瞥して「うるさいわ」とだけ言う。あまり大きな声ではないのに場が引き締まる。
「他にやることがないんだ。暇で仕方がない」
「だとしても毎日毎日同じことの繰り返しで飽きないのか?」
「とっくに飽いている……なんだそいつらは」
春好が睨むとシャーロックはお雪の後ろに隠れた。
春朗が「写楽さんとお雪さんだ」と紹介する。
「写楽さんは絵師で、お雪さんは……介添人でいいのか?」
「まあ似たようなものね。写楽は病を持っているから」
「病? ……だからそんな暑苦しい格好をしているんだな」
春好はどうでも良さそうに視線を外す。
そこにお栄が「春好おじさん!」と前に飛び出した。
「おお、お栄か。大きくなったなあ」
「あはは。ちょっと前に会ったばかりじゃない」
「それはそうだが、この年頃の女の子は成長が早いなあ」
くしゃくしゃとお栄の頭を左手で撫でる春好。
嬉しそうに笑う二人に案外子供には優しいのねとお雪は思った。
「それで、何の用だ?」
ひとしきりお栄の相手をし終わると春好は切り出した。
春朗は「初めはただ、兄さんに会いに来ただけなんだけど」と頬を掻く。
「実は写楽さんにあの絵を見せてやってほしいんだ」
「……ああ。別に構わないが。しかしどうして見せたいんだ?」
「画風に悩んでいるんだよ。その脱却のために兄さんの絵が必要なんだ」
春好は眼を細めて「写楽、と言ったな」とシャーロックに話しかけた。
「悩み事、教えなよ」
「……ヒトノエ、カケナイ。トテモ、クヤシイ」
シャーロックの両の手が拳を作っていることに気づいたのはお雪と春好だけだった。
絵に懸ける情熱を認めたのか、春好は「じゃあまずは人の絵とやらを描いてみなよ」と言い出す。
「春朗が連れてきた絵師だ。描けなくはないんだろ?」
「……写楽は描けなくはないわ。ただ――」
「いや。実際に見ないと判断がつかねえ」
春好は立ち上がって「俺の部屋で描こう」と誘ってくる。
シャーロックは悩んでいたが「ウン、ワカッタ」と頷いた。決心がついたのだろう。
そんなやりとりを見て「面白くなってきたな」と春朗は笑った。
「高みの見物決め込むなよ。お前も描くんだよ、春朗」
「俺もか? なんでさ」
「久しぶりに指導してやるって言ってんだ」
するとお栄も「私も描きたい!」と手を挙げた。
お雪は「えっ? この子も描けるの?」と驚く。
「俺の娘だからな。そこらの絵師よりも上手いさ。兄さん、いいかい?」
「ああ。お栄なら大歓迎だ」
春好はにやりと笑って「行くぜ」と促した。
「久々に退屈が紛れるな――」
◆◇◆◇
春好に案内されたのは寺内の離れだった。庵だと言えば聞こえはいいが、実際のところは小さな倉にしか思えない。中に入ると意外と整然としていた。布団も敷きっぱなしではなく隅に折りたたまれている。
「ほれ。この筆と墨使え」
渡された筆を手に取り、感触を確かめるシャーロック。一方でお栄はさっそく墨を擦り始めた。
「お題とかあんのか、兄さん」
「当然、写楽さんは人の絵だ。お前はそうだな……風景画でも描いてろ」
「ねえねえ、私は?」
準備が整ったお栄に紙を配ると「好きに描いていいぞ」とにこやかに春好は言う。
「お前は年の割に大人びた絵を描く。ま、親父の影響だろうな」
「でも私、父さんより絵が上手いよ」
「はっ! 吹きやがって! 今に見てろよ!」
春朗は娘に対抗心があるようで紙をもらうと黙々と描き始めた。その隣でお栄も描く。やや遅れてシャーロックも紙に向かった。
「あなたは絵を描かないの?」
「俺は描けない。お前さんだってそうだろう?」
「そうだけど……あなたは絵師でしょ」
反論したお雪に対して春好は右手をぎこちなく振った。ただそれだけだった。
三人が描き終えたのを見計らって「どれ、見せてみろ」と春好がまずお栄の絵を見る。
彼女は二本の竹を描いていた。子供にしてはなかなか渋い。墨のかすれ具合が風に吹かれている様子を表している。技量も高ければ感傷も引き立てる素晴らしい絵だった。
「春朗の娘なのに上手じゃないか。感心するなあ」
「けっ。可愛い弟弟子を貶して楽しいか?」
「お前は破門された身だろうが。ま、とにかく見せてみろや」
そっぽを向きながら出したのは二羽のすずめの絵だった。先ほどの光景を絵に写したのだろう。羽毛の細やかさもさることながら、今にも飛び立とうとしているのが分かる。
「へえ。腕を上げたな。素直に称賛するよ」
「兄さんに褒められるのはむずっかゆいぜ」
「それで、次は写楽さんの絵だが……」
男性の絵、それも少年を描いたと思うが――死んでいる。
生きた人に近づけようと微笑んでいるが、それが死に化粧のように思えてならない。
不気味なほど写実的であるがゆえ、生気が感じられないという葛藤を抱えていた。
「変だな。どうして誰が見ても死体のように思えるんだ?」
「父さん、なんか怖い……」
不思議がる春朗に怖がっているお栄。二人の感想は異なるが、死体を見ているのは変わりないだろう。シャーロックは眼に見えて落ち込んでしまった。
お雪は「どうすればいいの?」と春好に訊ねる。
「写楽が生きた人を描くには誇張した絵を描かなければならないわ。でも――まだ見つけられずにいる」
「なるほどなあ。だから俺の絵が必要なのか」
春好は得心したように頷いて、部屋の押し入れを探し始める。
しばらくして、丸めた紙を取り出した。
全員が注目する中、ばっと広げると――人物が描かれた絵が出てきた。
その絵は歌舞伎の役者と思わしき顔を大きく描かれていた。今にも飛び出そうな迫力が肉筆をもって表現されている。睨みを利かすその顔は芝居を演じている様を切り取ったようだ。そして何より――生きている。生命を感じさせるみずみずしさが眼に焼き付くようだった。
「スゴイ。コノエ、スゴイ……!」
シャーロックは眼の前の絵が現実としてこの世に存在することに驚いていた。
もしかすると絵師ゆえに描かぬ者よりも直接的に伝わるのかもしれない。
碧眼から涙があふれるのをこらえる――流してしまったら見えなくなるから。
「大首絵ならぬ大顔絵ってやつだ。ま、主流じゃないがな」
春好の説明が遠くに聞こえる――そのくらい、シャーロックにとって目指すべき作品だった。目指すべき頂きであり向かうべき道を示されたのだ。
「なあ写楽さん。これが気づきになるんだと俺は思うんだ」
「シュンローサン。ワタシ、カケル、デス」
シャーロックは頭を下げた。今までの生活やお雪に教えられたしきたりの中で、こうするべきと彼は考えた。
皆が見守る中、シャーロックは「ウレシイデス」と続けた。
「カクコト、コワカッタ。シタイニナルカラ。デモ、マチガッテイタ。カカナイト、マエニ、ススメナイ。ワタシハ、カワレナイ」
春朗は、ああこの人は成長するなと考えた。同時にもっと良いものを見せてくれるだろうとも思った。
お雪はシャーロックの悩みが解決できると安堵した。
お栄はもしかすると父さんの好敵手になるかもと少し心配になった。
春好は俺の絵が人の道を示せるのは感慨深いなと、動かなくなった右手を見ながら思う。
この絵を描いて良かった。
満足感だけが心を支配していた――




