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あくがれゆくは蝶なれや  作者: 丹空 舞
華族、羽須賀家

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5/5

肆* 羽須賀、家



蘭子様は、目をまん丸くしていた。

芙美はそれでようやく、自分が失言をしてしまったことに気が付いた。


 「貴女、『脚気』を知っているの?」


 芙美はとつとつと、熱にうかされたようにしゃべっていた。


 「ええと、その、西洋の書物に……」

 「貴女、医学書をお読みになるの?」

 「は、いや、読むと言う程では無いのですけれども、嗜む程度にと申しますか、和語に直すのもまだ時間がかかるのですけれど」

 「しかも、原語で?」


 墓穴を掘った。

 芙美は失敗を悟って顔をゆがめた。


 「は、あの、その、いえ、まあ……ハイ」


 男子より秀でてはならないというのが、社会の当たり前の常識だ。

 算盤も蘭学も、女はそこそこで良い。

 母にはそう言い含められて育った。

 幾ら、優秀だとしても、女にその先はない。

 良き縁へ嫁ぐのが親孝行であり、幸せだ。


 だが、芙美はこっそりと医学書を読んでいた。

 単純に、面白かったのだ。

 人体の内部、目に見えぬ何者かを探求する者たちの、深遠なる推察と大胆な表現。


 高級な専門誌は買えなかったが、古本を借りるくらいならば可能だ。女学校を辞める際、芙美の才能を惜しんだ先生が貸してくれるようになったのだ。


 「差し出がましいことを申し上げました」


 病床の蘭子様は、荒れた唇で微笑んだ。

 「いいえ。驚いただけ。貴女、名は」

 「芙美と申します」

 「そう。芙美。あのね、わたくし、貴女にお願いしたいことがあるの。あの人と駆け落ちすればよかったって、死にそうになってようやく後悔をしたわ」


不穏な単語が出た。芙美は眉をひそめた。


「この文を渡して欲しいの」

と、蘭子は玉虫色の小さな箱から、細く折りたたんだ小さな紙を取り出した。


「こんなの貴女の仕事じゃないのだろうけれど、もう縋るしかないわ。いつ儚くなってもおかしくないもの。受けとってくれるのね、優しい人だわ、貴女は。有難う。どうか、お願いね」






翌日、芙美は味噌を買うと言って外に出た。



ついでに、文士の詩人に手紙を渡さねばならなかった。

目当ての男はすぐに分かった。

蘭子の病状を聴くと、安宿の小さな部屋で人目も憚らず泣きに泣いて、案外に綺麗な字で返信を書いた。


「芙美さんと言ったね」

男は、火室といった。

丸眼鏡に細面の、背の高い紳士だ。

だが、蘭子様とは身分が釣り合わないのだと話した。

彼女に釣り合うのは貴族の尊い人間だけだ。


火室は返事と一緒に薄紙に包んだ固まりを芙美の手に握らせた。


「彼女の好きな砂糖菓子を一緒に。よければきみも一つ持っていってくれ」

「そんな高級なもの。私はいただけません」

「いいんだ。ありがとう、本当なら会いに行きたかった。一目でも見たかった。だけど、いいんだ。これでいいんだ。あの人が僕を思い出してくれたというだけで、救われたよ。代わりに僕は彼女に魂を捧げる。これでも詩人の端くれなんだ」


自分に言い聞かせるように、火室は淋しげに微笑んだ。


「蘭子様、砂糖菓子がお好きなのですね」


「ああ。僕が文壇のパーティーに呼ばれたときに、お見かけしてね……それから、何度かお会いしたんだ。白が似合う方だった。雪のように真っ白い砂糖に、真っ白いパン。レースのついた真白い手袋……彼女には白が似合った。純粋な混じり気のない白が」


「必ず、お渡しします」


「芙美さん、有難う。本当に……有難う」






帰りついた芙美は戻って、蘭子の部屋に持っていく晩御飯の膳の準備をした。


ふと、気付いた。

蘭子様の膳は、彼女そのもののように白い。


真っ白い米。

バターでソテーした人参。

魚の焼き物。

里芋の煮付け。

ビスケットやアイスクリイム。

和風の献立の合間に、高級なものが並んでいる。


しかし、芙美には違和感があった。


明らかに貧しい芙美の家族たちは、麻疹や肺炎で亡くなった者こそあれ、誰一人として脚気にはなっていない。


膳をじっと見る。

美しく炊かれた白米の艶を見る。


純粋な、混じり気のない白。



「もしかして……」



農学者の回想録に載っていた、小さな一文。

しかし面白い説だったので覚えていたのだ。


「糠には、動物の生命を維持するに不可欠な、しかも極めて微量にして有効な一種の成分が在る……これを欠くときは、鳥類は多発性神経炎を起こす⋯…」



ま白い膳は美しく、余りにも美し過ぎている。



芙美は自分に言い聞かせた。


余計なことをしない。

目立つべきではない。

下女は静かに檻に入っているべきだ。

波風を立てないで。




火室の寂しげな笑みと、蘭子様の笑みが浮かぶ。



あの人たちはもう一生会えなくなると確信してなお、有難うと芙美に伝えた。

歩兵のような価値の低い下女に、真心から礼を伝えた。




健気でいじらしい、決して報われない恋人達。







下女のまかない作りはいつも芙美の担当で、ちょうど厨房のどこに何があるかは知っている。


味噌のついでに買ってきた、あれ。


しかしさすがに不味いかもしれない。

だが、試さずにいれば蘭子様の末路は決まってしまう。



「ええい、儘よ!」





ぐずぐずしていたら女中頭に見つかるかもしれない。


芙美は急いで厨房から引き返し、美しい膳に一つだけ皿を加えた。



次回、月曜日更新です。

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