肆* 羽須賀、家
蘭子様は、目をまん丸くしていた。
芙美はそれでようやく、自分が失言をしてしまったことに気が付いた。
「貴女、『脚気』を知っているの?」
芙美はとつとつと、熱にうかされたようにしゃべっていた。
「ええと、その、西洋の書物に……」
「貴女、医学書をお読みになるの?」
「は、いや、読むと言う程では無いのですけれども、嗜む程度にと申しますか、和語に直すのもまだ時間がかかるのですけれど」
「しかも、原語で?」
墓穴を掘った。
芙美は失敗を悟って顔をゆがめた。
「は、あの、その、いえ、まあ……ハイ」
男子より秀でてはならないというのが、社会の当たり前の常識だ。
算盤も蘭学も、女はそこそこで良い。
母にはそう言い含められて育った。
幾ら、優秀だとしても、女にその先はない。
良き縁へ嫁ぐのが親孝行であり、幸せだ。
だが、芙美はこっそりと医学書を読んでいた。
単純に、面白かったのだ。
人体の内部、目に見えぬ何者かを探求する者たちの、深遠なる推察と大胆な表現。
高級な専門誌は買えなかったが、古本を借りるくらいならば可能だ。女学校を辞める際、芙美の才能を惜しんだ先生が貸してくれるようになったのだ。
「差し出がましいことを申し上げました」
病床の蘭子様は、荒れた唇で微笑んだ。
「いいえ。驚いただけ。貴女、名は」
「芙美と申します」
「そう。芙美。あのね、わたくし、貴女にお願いしたいことがあるの。あの人と駆け落ちすればよかったって、死にそうになってようやく後悔をしたわ」
不穏な単語が出た。芙美は眉をひそめた。
「この文を渡して欲しいの」
と、蘭子は玉虫色の小さな箱から、細く折りたたんだ小さな紙を取り出した。
「こんなの貴女の仕事じゃないのだろうけれど、もう縋るしかないわ。いつ儚くなってもおかしくないもの。受けとってくれるのね、優しい人だわ、貴女は。有難う。どうか、お願いね」
*
翌日、芙美は味噌を買うと言って外に出た。
ついでに、文士の詩人に手紙を渡さねばならなかった。
目当ての男はすぐに分かった。
蘭子の病状を聴くと、安宿の小さな部屋で人目も憚らず泣きに泣いて、案外に綺麗な字で返信を書いた。
「芙美さんと言ったね」
男は、火室といった。
丸眼鏡に細面の、背の高い紳士だ。
だが、蘭子様とは身分が釣り合わないのだと話した。
彼女に釣り合うのは貴族の尊い人間だけだ。
火室は返事と一緒に薄紙に包んだ固まりを芙美の手に握らせた。
「彼女の好きな砂糖菓子を一緒に。よければきみも一つ持っていってくれ」
「そんな高級なもの。私はいただけません」
「いいんだ。ありがとう、本当なら会いに行きたかった。一目でも見たかった。だけど、いいんだ。これでいいんだ。あの人が僕を思い出してくれたというだけで、救われたよ。代わりに僕は彼女に魂を捧げる。これでも詩人の端くれなんだ」
自分に言い聞かせるように、火室は淋しげに微笑んだ。
「蘭子様、砂糖菓子がお好きなのですね」
「ああ。僕が文壇のパーティーに呼ばれたときに、お見かけしてね……それから、何度かお会いしたんだ。白が似合う方だった。雪のように真っ白い砂糖に、真っ白いパン。レースのついた真白い手袋……彼女には白が似合った。純粋な混じり気のない白が」
「必ず、お渡しします」
「芙美さん、有難う。本当に……有難う」
帰りついた芙美は戻って、蘭子の部屋に持っていく晩御飯の膳の準備をした。
ふと、気付いた。
蘭子様の膳は、彼女そのもののように白い。
真っ白い米。
バターでソテーした人参。
魚の焼き物。
里芋の煮付け。
ビスケットやアイスクリイム。
和風の献立の合間に、高級なものが並んでいる。
しかし、芙美には違和感があった。
明らかに貧しい芙美の家族たちは、麻疹や肺炎で亡くなった者こそあれ、誰一人として脚気にはなっていない。
膳をじっと見る。
美しく炊かれた白米の艶を見る。
純粋な、混じり気のない白。
「もしかして……」
農学者の回想録に載っていた、小さな一文。
しかし面白い説だったので覚えていたのだ。
「糠には、動物の生命を維持するに不可欠な、しかも極めて微量にして有効な一種の成分が在る……これを欠くときは、鳥類は多発性神経炎を起こす⋯…」
ま白い膳は美しく、余りにも美し過ぎている。
芙美は自分に言い聞かせた。
余計なことをしない。
目立つべきではない。
下女は静かに檻に入っているべきだ。
波風を立てないで。
火室の寂しげな笑みと、蘭子様の笑みが浮かぶ。
あの人たちはもう一生会えなくなると確信してなお、有難うと芙美に伝えた。
歩兵のような価値の低い下女に、真心から礼を伝えた。
健気でいじらしい、決して報われない恋人達。
下女のまかない作りはいつも芙美の担当で、ちょうど厨房のどこに何があるかは知っている。
味噌のついでに買ってきた、あれ。
しかしさすがに不味いかもしれない。
だが、試さずにいれば蘭子様の末路は決まってしまう。
「ええい、儘よ!」
ぐずぐずしていたら女中頭に見つかるかもしれない。
芙美は急いで厨房から引き返し、美しい膳に一つだけ皿を加えた。
次回、月曜日更新です。




