壱* 下女、芙美
月曜日更新です。
芙美は陰気な女だった。
決して醜女ではないが、美人とは言い難い。
洗濯と掃除で手は荒れ、ささくれには血が滲んでいるのが常だった。
背は十八の女にしては平均的か、少し低いくらいだ。髪は艶のない茶色で、いつも紐でひとつに結んでいる。前髪も切らずにそのまま伸ばしている。そのせいか、本当の歳よりたいてい上に見られる。
此処、羽須賀家は、日本でも有数の資産家だ。
華族の中でも群を抜いている。
何しろ元を辿れば大名家に通じるという由緒正しい家柄だ。時代が時代なら殿様だったというのだから、本当なら芙美など屋敷の中にさえ入れない。
昨年から、たまたま、羽須賀のご当主のお嬢様たちが、次々にはやり病にかかった。それどころか、使用人たちまで病に倒れた。
跡継ぎの御子息も、どうやら調子が良くないらしい。
そうなると何分、手が足りない。
汚れ物や食事の支度など、追加の要員を募集しており、そこに芙美がちょうど収まったというわけだ。
同じ女中部屋に暮らしている、育児院出身のイトやハルは、どちらも気が強かった。
彼女らはいつもあからさまに芙美を蔑んだ。
出自に恵まれないものの、女たちの群れの中で生き抜く術を身に着けた強者たちだ。洗濯場でも厨房でも、すれ違えば、聞こえるように笑われる。
「なあに、あれ。髪が茶色なんておかしい」
「化粧も知らないのよ」
芙美には決定的に、足りぬ物があった。
それは、気概である。
芙美には、ある種の気概がまるで無かった。
他人と争うくらいなら、自分が我慢するほうがましだ。
芙美の家は中流の庶民だが、決して裕福ではなかった。七人兄弟の三女。上には兄と姉、下にも妹弟らがいたので、余裕は欠片もなかった。
誰かが我慢しなければ、物事は回らない。
芙美は、物心ついた頃からそれを理解していた。
新しい着物はいつも姉や妹に回り、芙美はお下がりを直して着た。
好きだった学問も途中でやめた。
芙美に住み込みで出仕する話が来たとき、家族はあからさまにほっとした顔をした。
「ありがたい話だ。口減らしになる」
「あの子は手がかからないから……」
その言葉を、芙美は責めることができなかった。
そうして芙美は此処に来た。
羽須賀家という巨大な要塞。
ここには羽須賀の血が流れた、『華族』という生き物が住んでいる。
美しい血の一族だ。
そんな華族の屋敷といっても、汚れ物は溜まる。
だから今日も芙美は、洗濯籠を抱えて裏廊下を歩いていた。
といっても、羽須賀の一族のものは上級の使用人が世話をするので、芙美たちのような新入りの若い下女が洗うのは、住み込みの使用人たちの着物だ。
「……冷たい」
早朝の廊下、小さく呟いた声は、霜が降りて冷え切った石壁に吸い込まれて消えた。
きっと自分が露のように消えてしまったって、明日は当然のように何事もなく過ぎるだろう。
下女は、掃除に洗濯、地味な雑務をこなす。
知性も教養も、貴族の身分も必要ない。
芙美たちは取るに足りない駒の一つだ。
早朝の廊下には誰もいない。
住み込みの者たちの暮らすのは下女の女中部屋だ。
主人たちが暮らす場所とは区分けされ、離れている。
女中たちは四人で一部屋を使うが、芙美たちは先月から三人だ。もう一人いた女中は、秋に良縁があって嫁いで行き、屋敷を出てしまった。
夜明け前の真っ暗い廊下をひたひた歩く。
朝は、釜戸の灰の処理をしなければいけないのだ。
前日の炭や薪の燃え残りをかき出して、灰を壺に入れる。
灰は洗濯や掃除に再利用するので、貴重だ。
この灰の始末が厄介で、手も顔も真っ黒になる。
なので、一番下っ端のする仕事だ。
イトやハルは一度もせずに、芙美に押し付ける。
だけど真っ向から嫌だといえば、どうなるか知れない。それよりも、従ってその場を収めておく、という意気地のない平和主義が、芙美の悪い癖だった。
羽須賀の女中の給金は月に二円程度で、男の使用人は十円。五倍の差がある。まるで小遣い程度だが、羽須賀以外のより小さな屋敷なら、もっと状況は酷いだろう。
屋敷は芙美のような女が生き延びるための檻なのだ。
生きることは、耐えること。
芙美は繰り返し心に刻んでいた。
仕事が終わったら、週末には愉しみが待っている。
給金の一部を使って、好きな本を借りるのだ。
愉しみを想えば、辛い仕事も哀しくはない。
そんな気持ちで一生懸命にやっていれば、耐えることの先にだって喜びすら見えてくる。
芙美は冷えた釜戸から、燃え残った灰を掻き出した。
誰もいない厨房は、しんとして一層寒い。
「へくちゅん!」
と、芙美はくしゃみをした。その拍子に、釜戸の奥で何かがサササッと動いた。
「ねずみ?」
万が一、虫やらなにやらが入ってしまったら、罰を受けるのは芙美たち下働きの者だ。
芙美は手が真っ黒に汚れるのも構わず、釜戸の奥に手を突っ込んだ。
瞬間、
「わあああっ」
何かの叫ぶ声がした。
芙美がむんずっと掴んだ手の中から、黒い茸のようなものがブルンブルンと動いている。
「何、これ……」
「なんだお前! 離せ! 離しやがれ!」
「しゃべってる……」
「う、しかも、血ッ!? はぁ!? おいおい、そりゃあないだろ!?」
ふと見ると、切れたあかぎれの指先から、僅かに血が滲んでいた。いつものことなので、気にしていなかった。黒茸はギャアギャアと喚いている。
「何だろ、これ……」
思わず『はるしねぇしょん』という西洋の医学書の一ページが思い浮かんだ。
和語訳は――『幻覚』。
「ふう、わたし幻覚を見ているのだわ」
「ふざけるな! 合点するな! なーにが幻覚だ! 俺は本物の神様だ! 調子に乗るなッ小娘が!」
「かみさま……?」




