表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あくがれゆくは蝶なれや  作者: 丹空 舞
華族、羽須賀家

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/6

壱* 下女、芙美

月曜日更新です。

 芙美ふみは陰気な女だった。

 決して醜女ではないが、美人とは言い難い。

 洗濯と掃除で手は荒れ、ささくれには血が滲んでいるのが常だった。


 背は十八の女にしては平均的か、少し低いくらいだ。髪は艶のない茶色で、いつも紐でひとつに結んでいる。前髪も切らずにそのまま伸ばしている。そのせいか、本当の歳よりたいてい上に見られる。


 此処、羽須賀(はすが)家は、日本でも有数の資産家だ。

 華族の中でも群を抜いている。

 何しろ元を辿れば大名家に通じるという由緒正しい家柄だ。時代が時代なら殿様だったというのだから、本当なら芙美など屋敷の中にさえ入れない。


 昨年から、たまたま、羽須賀のご当主のお嬢様たちが、次々にはやり病にかかった。それどころか、使用人たちまで病に倒れた。

 跡継ぎの御子息も、どうやら調子が良くないらしい。


 そうなると何分、手が足りない。

 汚れ物や食事の支度など、追加の要員を募集しており、そこに芙美がちょうど収まったというわけだ。


 同じ女中部屋に暮らしている、育児院出身のイトやハルは、どちらも気が強かった。

 彼女らはいつもあからさまに芙美を蔑んだ。

 出自に恵まれないものの、女たちの群れの中で生き抜く術を身に着けた強者たちだ。洗濯場でも厨房でも、すれ違えば、聞こえるように笑われる。


「なあに、あれ。髪が茶色なんておかしい」

「化粧も知らないのよ」


 芙美には決定的に、足りぬ物があった。

 それは、気概である。

 芙美には、ある種の気概がまるで無かった。

 他人と争うくらいなら、自分が我慢するほうがましだ。


 芙美の家は中流の庶民だが、決して裕福ではなかった。七人兄弟の三女。上には兄と姉、下にも妹弟らがいたので、余裕は欠片もなかった。

 誰かが我慢しなければ、物事は回らない。

 芙美は、物心ついた頃からそれを理解していた。

 新しい着物はいつも姉や妹に回り、芙美はお下がりを直して着た。

 好きだった学問も途中でやめた。

 芙美に住み込みで出仕する話が来たとき、家族はあからさまにほっとした顔をした。


「ありがたい話だ。口減らしになる」

「あの子は手がかからないから……」


 その言葉を、芙美は責めることができなかった。




 そうして芙美は此処に来た。

 羽須賀はすが家という巨大な要塞。

 ここには羽須賀の血が流れた、『華族』という生き物が住んでいる。

 美しい血の一族だ。


 そんな華族の屋敷といっても、汚れ物は溜まる。

 だから今日も芙美は、洗濯籠を抱えて裏廊下を歩いていた。

 といっても、羽須賀の一族のものは上級の使用人が世話をするので、芙美たちのような新入りの若い下女が洗うのは、住み込みの使用人たちの着物だ。


 「……冷たい」


 早朝の廊下、小さく呟いた声は、霜が降りて冷え切った石壁に吸い込まれて消えた。

 きっと自分が露のように消えてしまったって、明日は当然のように何事もなく過ぎるだろう。

 下女は、掃除に洗濯、地味な雑務をこなす。

 知性も教養も、貴族の身分も必要ない。

 芙美たちは取るに足りない駒の一つだ。


 早朝の廊下には誰もいない。

 住み込みの者たちの暮らすのは下女の女中部屋だ。

 主人たちが暮らす場所とは区分けされ、離れている。

 女中たちは四人で一部屋を使うが、芙美たちは先月から三人だ。もう一人いた女中は、秋に良縁があって嫁いで行き、屋敷を出てしまった。


 夜明け前の真っ暗い廊下をひたひた歩く。

 朝は、釜戸の灰の処理をしなければいけないのだ。


 前日の炭や薪の燃え残りをかき出して、灰を壺に入れる。

 灰は洗濯や掃除に再利用するので、貴重だ。

 この灰の始末が厄介で、手も顔も真っ黒になる。

 なので、一番下っ端のする仕事だ。

 イトやハルは一度もせずに、芙美に押し付ける。

 だけど真っ向から嫌だといえば、どうなるか知れない。それよりも、従ってその場を収めておく、という意気地のない平和主義が、芙美の悪い癖だった。


 羽須賀の女中の給金は月に二円程度で、男の使用人は十円。五倍の差がある。まるで小遣い程度だが、羽須賀以外のより小さな屋敷なら、もっと状況は酷いだろう。

 屋敷は芙美のような女が生き延びるための檻なのだ。

 生きることは、耐えること。

 芙美は繰り返し心に刻んでいた。

 

 仕事が終わったら、週末には愉しみが待っている。

 給金の一部を使って、好きな本を借りるのだ。

 愉しみを想えば、辛い仕事も哀しくはない。

 そんな気持ちで一生懸命にやっていれば、耐えることの先にだって喜びすら見えてくる。


 芙美は冷えた釜戸から、燃え残った灰を掻き出した。

 誰もいない厨房は、しんとして一層寒い。


 「へくちゅん!」

と、芙美はくしゃみをした。その拍子に、釜戸の奥で何かがサササッと動いた。


 「ねずみ?」


 万が一、虫やらなにやらが入ってしまったら、罰を受けるのは芙美たち下働きの者だ。

芙美は手が真っ黒に汚れるのも構わず、釜戸の奥に手を突っ込んだ。




瞬間、


「わあああっ」


何かの叫ぶ声がした。


芙美がむんずっと掴んだ手の中から、黒い茸のようなものがブルンブルンと動いている。


 「何、これ……」

 「なんだお前! 離せ! 離しやがれ!」

 「しゃべってる……」

 「う、しかも、血ッ!? はぁ!? おいおい、そりゃあないだろ!?」



 ふと見ると、切れたあかぎれの指先から、僅かに血が滲んでいた。いつものことなので、気にしていなかった。黒茸はギャアギャアと喚いている。



 「何だろ、これ……」



 思わず『はるしねぇしょん』という西洋の医学書の一ページが思い浮かんだ。


 和語訳は――『幻覚』。





 「ふう、わたし幻覚を見ているのだわ」


 「ふざけるな! 合点するな! なーにが幻覚だ! 俺は本物の神様だ! 調子に乗るなッ小娘が!」


 「かみさま……?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お読みいただき有難う御座います。 リアクション、評価、ご感想など更新の活力にさせてもらっております。感謝!
― 新着の感想 ―
芙美、美しい芙蓉の花 花言葉の1つに「幸せの再来」とあるようです 芙美が幸せになっていく様を楽しみにしています
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ