九話
ベルナデッタは庭にある小屋にやってきて、ベンチに座って空をじっと見つめていた。
相変わらず、アルビオラの空は薄い光で覆われている。光の膜はドーム状に広がり、アルビオラ全体を包んでいた。ずっと歩いて屋敷の広大な庭を抜ければ、やがて光の壁にたどり着くのだろか。
あれの壁が何なのか、ベルナデッタはまだ知らない。そしてアルビオラの人々はその壁が存在することを当たり前だと思っていて、誰も口に出さない。人が呼吸するのを当たり前としているように、わざわざ話題に出すまでも無いものなのだ。それくらい、あの光の壁は常に変わらずそこにある。
アルビオラの人々は、あの空が蒼くて果てしないことを知らないのかもしれない。空には本当は天井が無いということを、知らないまま生まれて死んでいくのかもしれない。空が蒼いという事実は、この国の人々にとって取り立てて重要ではないのだろう。
ベルナデッタが小屋で過ごしていると、騎士の訓練を終えたリベルトが小さな馬に乗ってやってくる。この小屋は、二人が互いに話したいと思った時にやってくる場所である。いわば秘密基地のようなものだった。
「リベルト、お疲れさま」
「ベルナも。勉強頑張ってるって聞いてるよ」
「でも、今日、嫌な事があったの。聞いて」
ベルナデッタは深く溜息をついてリベルトに愚痴る。
今日バルドヴィーノと話したこと。そして気になった、あの淀んだ藍色の瞳や不気味な視線ついて。彼はこの国の悪しき風習について知っているような気がしたことについてもベルナデッタは話す。
誰にも言えない、リベルトにしか明かせない胸中を一気に吐き出したことで、胸がすっと軽くなるような心地がする。
「アイツ、絶対何か企んでるわ。でなきゃ、あんなに気持ち悪い目でわたしを見たりしない!」
ベルナデッタの言葉を、リベルトは苦笑しながら聞いている。
彼は司教や司祭に仕える騎士の家系である。そんな彼にとって司教は本来、最も敬うべき存在だ。そして日々座学の中でも、そうやって教えられていることだろう。たとえベルナデッタの言うことだろうと、簡単に司教の悪口に同意することはできないに違いない。
「でも、何か企んでるとしたら、司教さまは何が目的なんだろう……」
リベルトの言葉を聞いて、ベルナデッタは考え込む。確かに、バルドヴィーノが黒幕だとして、その目的が全く読めない。あの視線を見る限り、ユシリスに神子を食わせて愉しむというだけではなく、もっと邪悪な何かがあるのではないかと思う。
それに、方法は歪であれど、ユシリスの力でアルビオラの平穏が保たれているというのは事実なのだ。であれば、神子を食わせたり国を守ったり為すことの脈絡が無くて、ますますバルドヴィーノの目的が分からない。
「バルドヴィーノって、いつからあの儀式をやってるの?」
「分からない。でも遠い昔からだ。おれの曽じいさんも、バルドヴィーノ司教に仕えてたって聞いたし……」
「えっ」
「何歳なんだろう。三百歳は超えてるんじゃないかなぁ……」
「そ、そんなことがあるの……⁉」
三百歳。そんな長命な人間なんて見たことがない。アルビオラの人々も、特に寿命が百年以上あるというわけではなさそうだし。彼の年齢が本当に三百歳を超えているのであれば、バルドヴィーノだけが異常なのだ。
「ユシリス神の加護を間近で受ける司教さまは不老なんだ。だから、司教様さまはずっと代替わりせずに、ずっとユシリスに仕え続けてる」
不老。たとえ神の加護があったとしても、ただの人間が三百年も生きるなどと、そんなことがあり得るのだろうか。確かにここはベルナデッタの前世とは全く違う世界で、不老の奇跡や加護など、そういう神がかり的な事象もあるのかもしれない。だとしても、生き物を不労にするなんて、どんな世界でもそうそうあることじゃない。
「……なんだか、ますます胡散臭くなってきた」
「はは……」
六歳児に似合わない険しい表情を見せるベルナデッタを見て、リベルトは苦笑した。
不意にベルナデッタがはっとしてリベルトに言う。
「ねぇ、リベルト」
「どうしたの?」
「わたしも戦う練習をした方がいいのかしら」
大真面目に尋ねるベルナデッタの言葉を聞いてリベルトはきょとんとしている。
「だって、どう考えてもバルドヴィーノが悪いやつよ。あれを倒さないといけない気がするわ」
「確かに、司教さまが悪い人なら……うーん」
「何言ってるの、あんなの絶対に悪いやつに決まってる!」
ベルナデッタはベンチからぴょいと飛び降りる。そんな彼女をリベルトは目で追っている。
ベルナデッタはもみじのような手をリベルトに差し出す。
「リベルト、ちょっと剣を貸して」
「良いけど……重いよ?」
「大丈夫よ」
自信満々のベルナデッタの答えを聞くと、リベルトは背負っていた剣を下ろしてベルナデッタに差し出す。
手渡された剣を両手でリベルトから受け取る。だが、その剣は見た目よりもかなり重くて、とてもではないが持ち上がらない。ベルナデッタは歯を食いしばって一生懸命持ち上げようとしたが、結局剣の切っ先が地面から浮くことはなかった。六歳の少女に鋼鉄の塊はちょっと重すぎた。
リベルトはこんなものを容易く持ち運び、そして振り回しているというのか。幼馴染ながらも、とんでもない怪力だ。
手も足も出ず完全に不本意だが、ベルナデッタは剣をリベルトに返却する。そして、
「……もう少し鍛えてからにするわ」
「っはは、そっか」
強がっていたのは、バレバレだったことだろう。