八話
彼の姿を見るのは献納の儀式以来だ。淀んだ藍色の目と口元に浮かぶ薄ら笑いを見ると、背筋が凍るような心地がする。子どもながらの直感だが、彼からは形容しがたい不気味さが漂っていた。司教という神聖な役職を担っているようにはとても思えない。
だが、そんな不気味さを母は全く感じ取っていないらしかった。母は慇懃に頭を下げて挨拶し、
「あら、バルドヴィーノ司教。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。親子でピクニックですかな」
ベルナデッタは警戒心を持って彼を見上げる。うっすらと笑みを浮かべ続ける彼を、ベルナデッタは母のドレスの裾を握りしめながらこっそり睨みつける。
何故だか分からない。けれど、バルドヴィーノが諸悪の根源のようにベルナデッタは感じていた。その根拠は直感以外には何も無いのだが。
「ベルナが一人で勉強していたから、様子を見に来たのです。毎日ユシリス様についての書籍を読んで……本当に敬虔な神子です」
「それは結構なことですね。ユシリス様もさぞお喜びになるでしょう」
「光栄です。バルドヴィーノ司教」
険しい表情をするベルナデッタを放ったまま、二人の会話は進んでいく。
母親には、庇ってほしかったのに。守ってほしかったのに。それすら望むべくも無いのだから絶望的だった。いつか十八歳の誕生日を迎えたとして、彼女はベルナデッタを喜んでユシリスに差し出すのだろう。そして、一人娘が大蛇に噛み砕かれる様を見ても何も思わないのだろう。
不意に、ベルナデッタはバルドヴィーノ司教と目が合う。
ベルナデッタに注がれる不気味な視線に、背筋がぞっと粟立つのを感じる。まるで獲物を舐め回すような、吟味するような、気味の悪い眼差し。
これも直感だが、あの人はこの異様な風習について何かを知っている。その視線から、ベルナデッタはその可能性を察した。
彼にこれ以上見つめられるのが嫌で、ベルナデッタは目を逸らす。そんなベルナデッタを見て、バルドヴィーノは鼻で笑う。
「どうかされましたか、司教様」
「いいや、大層可愛らしい子だと思いましてね」
「ありがとうございます」
その皮肉めいた言葉がすごく腹が立って、ベルナデッタは再び顔を上げてバルドヴィーノを睨む。そんな幼い子どものなけなしの抵抗を見て取ったからかもしれない。バルドヴィーノが歪に笑んだ気がした。
二人の視線の応酬に母が気づかなかったのは、彼女が司教やユシリスを盲目的に信仰しているからだろう。
「そういえば、わざわざこちらまで来られて、どうかされたのですか」
「深い理由はありません。ただ、次期の神子は随分と勤勉で評判がいいと聞いたから、様子を見たかったのです」
「恐れ入りますわ。ベルナ」
「………………」
母に呼びかけられるも、ベルナデッタは母の後ろに隠れたまま出てこない。なおも警戒心を持った目でバルドヴィーノを見つめ続けている。
いつもは勤勉で礼儀正しいベルナデッタが、まさか司教の前で無礼を働くとは思わなかったのだろう。母は慌てた様子で、
「す、すみません、この子ったら人見知りを」
「構いません。まだ六歳ならば、そういうこともあるでしょう」
「ありがとうございます。きちんと言い聞かせておきますので……」
司教に許され、母はほっとしたようだった。ベルナデッタが警戒したり、怯えていたりすることを気に掛ける様子は無い。母にとって大切なのは、司教やユシリスからの評価であって、ベルナデッタはユシリスに捧げるための餌でしかないのかもしれない。
母は再び慇懃に礼をして、
「必ずや、ユシリス様のお目にかなうよう育てます」
「頼みましたよ」
いつかベルナデッタをユシリスに食わせるために。
その身を神の生贄とするために。
二人はにこやかにおぞましい会話を交わしている。しかも、よりにもよってベルナデッタの前で、である。彼らは本当に、ベルナデッタがやがてユシリスに食われることを喜ばしいとしか思っていないのだろう。
神子になりたくないと思っているのは自分だけだ。そう思い知らされるたび、胸がぎゅううと締め付けられるような心地になる。
とはいえ、二人がなんと言おうとも、ベルナデッタはユシリスの神子になるつもりなど無かった。あと十二年間でできる限りのことを為して、献納の儀式から逃げてやるつもりだった。ベルナデッタは二人に向かって、こっそりとあっかんべーした。