七話
ベルナデッタは今日も、ユシリスについて知るべく読書に励んでいた。いつも図書室に籠って本を読んでいては気が滅入ってしまうので、今日は屋敷を囲う庭園で本を読み進めていた。
ベルナデッタの住むアンジェロ家の屋敷は、広大な庭園に囲まれている。枝葉は切り揃えられ、花は均等に植えられ、その壮観な光景といったら息を呑むほどである。まだまだ機械や化学などが発展していない国が作り出したものとは到底思えない。
この広大な庭園の手入れはメイドや執事たちが手ずから行っているらしい。家事などを終えて余った時間を、庭の手入れに費やしているようだ。
何度見ても巨大な庭園だと思う。徒歩で移動することがほぼ不可能で、庭を超えて聖堂や他家に向かおうとすると馬や馬車が必要なくらいアンジェロ家の庭は広いのだ。そして、他の司祭の屋敷もそうだと聞いたことがある。それゆえに行き来が大変なので、メイドや執事たちも基本的に住み込みで働いている。
ベルナデッタはまだ、この庭園の外にあまり行ったことがなかった。何度か外に出たこともあるが、他の司祭の家系に遊びに行くときや、大聖堂に行くときくらいだ。他には庭園の外に行かなければならないような用事もなかったし、両親も司祭の仕事以外でどこかへ出かける素振りは見せなかった。
庭の外はどうなっているのだろう。アルビオラ騎士団たちが馬に乗って外の方へ向かっているのは見たことがあるが、彼らどこに行っているのかは分からない。
アルビオラの空は薄い光の膜に覆われていて、それはドーム状に国を包んでいる。ずっとずっと庭の外に向かって歩いていけば、いつか空を覆う光の膜にまで辿り着けるのかもしれない。その膜の外の世界はどうなっているのだろう。
読んでいた本をパタンと閉じ、ベルナデッタは唸る。
(ユシリス……。豊穣と救済を司る神……)
それが誰に聞いても、どの文献を呼んでも基本的に共通している事項だった。今読んでいる書物にもそう書いてある。アンナを食らった白銀の大蛇が、豊穣と救済を司っているのだという。
だが、仮にも救済を司る神が生贄を要求するなど、そんなことがあってもいいのだろうか。神子を犠牲にしておいて救済の神を名乗るなんて大嘘じゃないか。
(どうして誰も疑問に思わないの?)
あんな残虐なことが目の前で行われて誰も何も思わないなんて。それどころかあの神の所業を讃えているなんて。いっそ洗脳されていると言われた方が信じられるくらいだった。
「ベルナデッタ」
「お母さま」
ベアトリーチェ・アンジェロ。ベルナデッタと同じプラチナブロンドの長髪に、澄んだ翠の瞳。ベルナデッタの母である。
とてもきれいな人だ。何人か司祭の家系の人々にも会ったが、その中でもぶっちぎりで端麗な容姿を誇っている。そして、それをベルナデッタも引き継いでいる……と思いたい。
「またユシリス様の本を読んでいるのね。本当に勤勉な子。ユシリス様もお喜びになると思うわ」
彼女は、自分の娘が十八歳になると同時に贄とされてしまうというのに、全く嘆く様子は無い。むしろ光栄だと言わんばかりだ。もしかしたら元々ベルナデッタは、生贄にされるために産み落とされたのかもしれない。
食われるために生まれた命。ようやく、二度目の生を得られたのに、そこでもベルナデッタは十八歳になると同時に死ぬ運命が定められていた。
本当なら、食われたくないという気持ちを誰よりも母に分かってほしいのに。国中の人々が敵になったとしても、彼女にだけは庇って欲しかったのに。彼女はベルナデッタが神子を務めることを、一番喜んでいる様子さえあった。
両親でさえこうなのだ。ベルナデッタが食われたくないという気持ちに共感してくれる人は、この世界にもうリベルト以外にいないのかもしれない。
それでも、心のどこかではまだ諦められていなかったのだろうか。ベルナデッタは尋ねてしまう。
「お母さまは、ユシリス……さまのこと、好き?」
「えぇ、とても。何と言っても、私たちの生活を守ってくださっているんだもの。神子に選ばれた貴方が羨ましいくらい」
「……」
「ユシリス様と一体になる感覚。それはきっと、何にも代えがたい喜びがあるのでしょうね」
狂気的とも言えるその言葉に、ベルナデッタは何も言えなかった。母は完全にユシリスに心酔しきっている。神子として選ばれることが幸福だと信じてやまず、ベルナデッタの本心には少しも目を向けない。あの祭壇に立って、巨大な口を向けられて、それでも彼女はまだ同じことが言えるのだろうか。
────アンナはあの時、神子として選ばれたことを後悔したのだろうか。あの一瞬であれば、アンナはベルナデッタの気持ちに共感してくれたのだろうか。彼女は既に食われてしまって、それを確かめる術はないけれど。
「貴方が懸命に勉強に励んでいることは、きっとユシリス様も見ておられるわ。たいそう喜ばれるでしょうね」
「……」
ユシリスの為に勉強をしているんじゃない。神子の使命から逃げ出すためにベルナデッタは勉学に励んでいるのだ。
そう訴えたかったけれど、母にそれを言ってしまうとややこしくなりそうだったから、気持ちを抑えて口をつぐんだ。残念だが、彼女のことは母親だとは思わない方がいい。
「ベルナ?」
「……ううん、なんでもない」
お家に帰ろう、そう言って母の手を引こうとしたところで、足音が聞こえてくる。ベルナデッタははっとして振り返る。
そこにやってきたのは、青白い肌に彫りの深い顔の男性。バルドヴィーノ司教だった。後ろには護衛の騎士が二人控えている。彼らはここまで馬に乗ってきたのだろう、移動用の馬を近くに待たせてあった。