五話
ベルナデッタは六歳。前世で言えば小学校に入学するくらいの年齢である。
ベルナデッタは自身の屋敷で読み書きの練習に励んでいた。勉学は基本的に家庭教師がつき、一対一で教えてもらうことができた。
勉学の時間は一日数時間程度だったが、それ以外の時間もベルナデッタは自分で読み書きを勉強したり、本を読んだりして過ごしていた。十八歳になるまでに、どうにか神子の使命から逃れる方法を探さなければならない。そう思ったら、一分一秒ですら惜しかったのだ。
前世とは言語が全く違ったので、最初は人々が何を言っているか全く聞き取れなかった。それでも生まれながらにずっと聞いていれば、流石に分かるようになった。今のベルナデッタは会話も十分にできるし、読み書きも年齢以上の水準でできる。他の司祭の家系を見渡しても、トップレベルの成績だった。
「ベルナデッタお嬢様は大変優秀ね」
「次期の神子に相応しい」
「ユシリス様もお喜びになるわ」
勤勉で成績も良いベルナデッタを見て、執事やメイドもよく噂していた。けれど、神子に相応しいなんて褒められ方をしても、ちっとも嬉しくなかった。ユシリスに食われるために勉強をしているのではない。ユシリスから逃げる方法を探すためにベルナデッタは勉強に励んでいるのだ。
日々の勉学を繰り返すうちに、ベルナデッタは読み書きも計算もすぐできるようになった。六歳にしては破格の進捗である。その進捗を鑑みて、家庭教師はいろいろなことを教えてくれるようになった。そのたびに褒められるけど、賢い神子だとか、ユシリス様に相応しいとか、そんなことを言われたって全く嬉しくなかった。
定められた勉学の時間が終わってから、ベルナデッタは一人で図書室へ向かった。
少しひんやりとした室内。窓にはえんじ色の分厚いカーテンが掛けられ、本が日に焼けないように日光を遮っている。壁には天井と同じ高さがある本棚が所狭しと並んでいて、その蔵書量は壮観だった。アンジェロ家の図書室には、この国の歴史書から小説、童話などまで様々な本が集められていた。
(ユシリスについて調べないと……)
聖地アルビオラに君臨する神、ユシリス。前神子であるアンナを食らった巨大な蛇。そんなおぞましい生き物が、この国を守る神だなんてそんなことあるものか。
ベルナデッタはユシリスについて知るため、勉学の時間が終わるといつも図書室を訪れていた。
そしていつものように歴史書や神話などの本棚を見渡し、読んだことの無い本の中から参考になりそうなものを探す。
本棚をしばらく眺めた後、ベルナデッタは深緑の装丁が豪華なハードカバーの本を、本棚から取り出した。アルビオラとユシリスに関する歴史書のようだ。
ベルナデッタはその本を近くのローテーブルまで持って行くと、座って内容に目を通し始めた。
ユシリス。聖地アルビオラに豊穣と救済をもたらす神。
凶悪な魔物に襲われて滅びかけたこの国を、ユシリスが救済した。そしてさらには、ユシリスは豊穣の加護でもってアルビオラの豊かな生活を支えているのだという。
(この神が存在しているおかげで、アルビオラの人々は不自由なく暮らすことができている。
ベルナデッタは自身の生活を思い返す。確かに、衣食住に困らないだけでなく、本や楽器、画材などの娯楽品にも全く困ったことが無い。ユシリスの加護によって、アルビオラの人々は不自由ない生活が担保されていることは確かなのだろう。
一方で、ユシリスはその加護を維持する対価として定期的に若い娘の生贄を要求する。そのため、司祭の家系は十八歳になった娘をユシリスに差し出すことになっている。
ベルナデッタの生まれたアンジェロ家も司祭の一家だ。
それゆえにベルナデッタは、十八歳になると同時に神子としてユシリスに差し出される。
アンジェロ家は司祭の家系だというだけあって、ユシリスに対して厚い信仰心を持っている。母もほとんど妄信的だ。父親のアレッシオも司祭を務めていて、神子を捧げるという風習に全く疑問を抱いていない。それどころか、自分の娘が神子に選ばれることを光栄だとさえ思っている。
両親は、ユシリスを信仰しているからこそ全く不自由なく暮らせているのだと信じ込んでいる。
だが、そこに本当に間違いは無いのだろうか。
(この国はどうなっているの?)
聖地アルビオラは一見してとても美しい、西洋風の国だ。物語の世界に入り込んでしまったと考えても過言ではないように思う。
国には清らかな日光が注ぎ、美しい花が庭で咲き誇っている。人々は本を読み、紅茶を飲み、そして決まった時間に聖堂や礼拝堂で祈りを捧げて、ゆったりとした時間を過ごしている。
アルビオラの人々は、絵に描いたような貴族の生活を送っている。使用人たちでさえ、時間に急かされることなく、のんびりと自身の仕事をしている。そこだけ見ればユシリスの加護は本当に素晴らしく、人々が盲信するのも仕方ないのかもしれない。
ベルナデッタは本に目を通しながら考える。前世の知識は概ね引き継いでいるが、この国に関しては分からないことが多すぎる。ほぼ病室で前世を過ごしたとはいえ本を読んだりテレビを見たりくらいはしていたが、こんな名前の国も、ユシリスという神の名も聞いたことがなかった。
宗教というものの実態もベルナデッタには馴染みが無く、よく分からないものだった。病気というものは、神に祈ったところで治るものではなかったので。
神への信仰は本当に人を救えるものなのだろうか。加護でもって人々の生活を支えられるものなのだろうか。
(……でも、この国には確かに神がいて、人々の生活に恵みをもたらしているって言う)
本当にそんなことが可能なのだろうかとベルナデッタは考える。
だが、ここが物語に描かれるような中世ヨーロッパのような国で、実際に神が存在しているからには、そんな奇跡も起こりえるのかもしれない。
とにかく、生贄なんかにはなりたくない。その一心で、ベルナデッタは書物をひたすら読みふけっている。
ただ、六歳の身体となるとまだ集中力も拙い。眉間にしわを寄せながらしばらく書物に目を通しているうちに、ベルナデッタは頭が痛くなってローテーブルに突っ伏した。
「あら、お嬢様。そんなに難しい本を読んでいるのですか」
「……エルネ」
ベルナデッタに声をかけたのは、エルネスタというアンジェロ家に仕えるメイドだ。給仕や家事などを担当しており、ベルナデッタの遊び相手を務めることもある。