二話
その言葉を聞いて、アンナは真摯な表情で膝をつき、祭壇上で祈りを捧げ始めた。
これから始まるのは献納の儀式だと母は言っていた。これから何が始まるのだろう。一体何の為に催される儀式なのだろう。そう思って祭壇上のアンナを眺めていると、唐突に聖堂がぐらぐらと揺れ始める。
地震だ。そう思ってひやりとした心地になるが、周囲の人々は地震を前にして誰も慌てた様子は無い。となると、この地鳴りも恐らくは儀式の一部なのだとベルナデッタは自分を納得させる。
だとすれば心配はいらないだろうが、だとしてもなんだか嫌な予感がする。献納の儀式とは何だろう。これからこの祭壇で何が起きるのだろう。ベルナデッタが不安の面持ちで祭壇上を見つめていると、やがて祭壇の向こうに巨大な影が飛び出す。
長大な銀白色の胴体。分厚いまぶたから覗くぎょろりとした金色の眼。細長い瞳孔が、真っ直ぐにアンナへと向けられている。
吐き出される生温かい吐息が聖堂に吹き渡る。口からは赤く長い舌が伸び、まるで極上の獲物を前に舌なめずりしているかのようだ。
銀白色の鱗を持った大蛇。その姿をベルナデッタは初めて見た──が、これが聖地アルビオラの人々が崇めるユシリスだと言うのだろうか。
神とは到底思えない、不気味でおぞましい姿。神というよりは魔物の方が近い気がする。その恐ろしい姿から、ベルナデッタは目を離せない。
アンナはユシリスへと向かってじっと祈りを捧げ続けている。その姿をユシリスが、見定めるように凝視している。
ユシリスは現れたが、これから何が起こるのだろう。そう思ってベルナデッタが祭壇上を眺めていると。
ユシリスはその巨大な口をあんぐりと開けて。
その口で、鋭くとがった牙で、少女の身体にかぶりつき。
グロテスクでおぞましい音を立てながら、少女を食らい始めた。
顎が動くたび、肉が千切れ、骨が砕ける音がする。咀嚼するたびに大理石でできた美しい祭壇に雨のような血飛沫が噴き出す。
まだ意識があるのかもしれない。静謐な聖堂に、少女の断末魔が響き渡る。人の身体からしてはいけないおぞましい音が絶えず響き、神秘的だった聖堂を異様な空間へと変貌させる。
ベルナデッタは思わず目を見開き、目の前でごく平然と行われるおぞましい儀式に、身体を恐怖で震わせる。
(これが、献納の儀式?)
この国を守護する神に、今日十八歳になったばかりの少女を供物として差し出す。それが献納の儀式だと言うのだろうか。この儀式を見るために、人々はこぞって聖堂に集まったというのだろうか。これが十数年に一度の、この国で最も喜ばしい儀式だというのだろうか。
目の前で繰り広げられる、人を人と思わないような残虐な光景。
この世に有り得ていいものだとは、微塵も思えなかった。
早く目を逸らしたかった。それなのに、その恐ろしい光景から、何故だかベルナデッタは目を逸らせない。
こんな狂ったこと、止めさせなければならない。儀式を中断しなければならない。それなのに、この異様な光景に誰も異議を唱えない。
一人の少女が化け物に食われているというのに、華憐な歌声を上げるはずの喉から絶望の金切り声を上げているというのに、その悪夢のような光景の正当性を誰も疑わなかった。大聖堂の中に響く少女の絶叫を、うら若い少女が瞬く間にただの肉塊と血の海に変貌していく様を、誰も悲しまなかった。光に覆われているはずの空が、何故だか赤く染まっているように感じた。
少女の絶叫をまるで聞こえないもののように扱い、大勢の国民を前にして粛々と進められる儀式。
どれだけの時間、ベルナデッタは食われる彼女の姿を見つめていただろう。
やがて血に染まった銀白色の蛇がその場から姿を消した時、大理石の白い祭壇にはおびただしい量の血が残るのみだった。
その場を満たす、むせ返るほどの鉄のにおいと異様なほどの熱。全く不似合いな、厚い信仰心を持って捧げられる祈りと静寂。
当然ながら、祭壇にはアンナの姿はもうどこにもない。ユシリスに、食われてしまったのだから。可憐だった少女の身体は噛み砕かれて、大蛇の腹の中に消えてしまったのだから。時間にして数分の、それでいてあまりにも恐ろしい光景に、ベルナデッタは唖然として放心していた。
「皆様の敬虔な姿勢に感謝いたします。この儀式を持ちまして、聖地アルビオラの十数年の平穏が確約されました」
聖堂内を満たすむごたらしくも神聖な空気を裂くように、祭壇に立つバルドヴィーノが宣言した。その言葉を聞いて、ベルナデッタははっと我に返る。
彼は言葉を続ける。
「時期の神子は既に決まっています。そうですね、アンジェロ様」
「えぇ」
ベルナデッタの隣で、母が誇らしげに応える。
バルドヴィーノに話を振られて、ベルナデッタはぞっとした。アンジェロというのは、ベルナデッタの姓だ。そこで、『貴方もそろそろ果たすべき使命を知るべきでしょう』と儀式が始まる前に話していた母の言葉を思い出す。
ひどく嫌な予感がして、今すぐここから逃げだしてしまいたかった。それなのに、絶望に襲われた身体はまるで凍り付いてしまったかのように、言うことを聞かない。
アンナは司祭の家系の娘だと言っていた。母は、ベルナデッタに課せられる使命があると語っていた。
──もしかして、司祭の家系の娘に課せられる使命とは。
母は愛おしげにベルナデッタを見て、
「次回の儀式の神子は、我がアンジェロ家の娘、ベルナデッタが務めます。ユシリス様のお目に適う神子を育て上げることを、私たちは皆様にお約束いたします」
ベルナデッタに告げられたのは、十八歳になると同時に食われるという、絶望的な未来だった。