一話
思えば、この国に生まれてから、蒼い空を見たことが無かったかもしれない。いつ見上げても、聖地アルビオラの空は薄い光の膜に包まれていたから。
この国の空は、角度によって色彩を変えるオーロラのような光が覆っている。そして、その光はいつ何時も薄れることは無かった。世界を包む天空が本当は突き抜けるように蒼いという当然の摂理を、前世の記憶が無ければベルナデッタは知らないままだったかもしれない。
アルビオラ大聖堂の鐘塔から鐘の音が遥か遠くまで響き渡っている。祝福すべき儀式の開始を告げる荘厳な音は、アルビオラの全域に届いているのだろう。
ベルナデッタは大聖堂で行われているという儀式を、六歳になって初めて見る。前回この儀式が行われたのは十数年前が最後で、ベルナデッタはまだ生まれていなかったのだ。
ベルナデッタが知っているのはその儀式がとても喜ばしいということだけだ。その儀式で何が行われているのか、何のために行われているのかは全く知らない。
「行きましょう、ベルナデッタ」
そう言ってベルナデッタの手を引いたのはベアトリーチェ・アンジェロ。ベルナデッタの母である。美しいプラチナブロンドの髪をなびかせ、翡翠のように穏やかで優しい瞳で、彼女はベルナデッタを見つめていた。
ベルナデッタと同じ髪の色。ベルナデッタの幼いながらも人形のように美しい容姿は彼女から受け継がれたものだ。母子共に、容姿に関しては使用人や他家の司祭から褒められることが多かった。
大聖堂へ繋がる大通りを、ベルナデッタは母の手に引かれながら歩いていく。広場から大聖堂へ繋がる道はレンガで整然と舗装され、道端には色とりどりの花が植えられている。
大聖堂へ向かう大通りは賑わっている。大人も子どもも、楽しげな様子でお喋りをしながら大聖堂へと向かっていく。これから大聖堂で行われる十数年に一度の儀式を、神からもたらされる奇跡を、人々は待ち侘びているのだ。
「お母さま、これから何がはじまるの?」
いつになく賑わう大通りの様子を眺め、わくわくしながらベルナデッタは尋ねる。
「今日は、十数年に一度の献納の儀式があるのよ」
「けんのう?」
「ユシリス様に、これまで与えてくださった加護や奇跡のお礼と、次もお願いしますっていうお祈りをするの」
ユシリスというのは、聖地アルビオラに降臨する豊穣と救済を司る神のことである。物心がついた時から、ベルナデッタはその神の名前を何度も聞かされていた。
母のベアトリーチェは微笑んで言った。
「貴方もそろそろ、果たすべき使命を知るべきでしょう」
薄い桃色の大きな瞳を丸めて、ベルナデッタは首を傾げる。
ベルナデッタは、ユシリスに仕える司祭の家系に生まれた一人娘だ。司祭の家系に生まれた一人娘となれば、献納の儀式において、何らかの『使命』があったとしても不思議なことはない。その内容はまだ分からなかったけれど、自分が持つという使命に対して責任感のようなものを、子ども心にベルナデッタは覚えた。
ベルナデッタは母に連れられながら大通りを歩き、祝福の空気に包まれながら大聖堂へと向かっていく。
やがて大聖堂にたどり着き、二人は中に入る。聖堂には既に多くの人々がやってきていて、ごった返していた。そこにいたのは、使用人から聖職者、そして騎士たちまで様々だ。
十数年に一度の儀式ということもあってアルビオラ中の人々が集まっているから、聖堂に収まり切らないほどの人が集まるのも当然のことだろう。
ゴシック様式の聖堂内を彩るのは、壁に飾られた数多くの名画や彫刻。その細かい造形の芸術品に、どれだけの時間や人手が費やされているのか、ベルナデッタには想像もつかなかった。そこから見上げれば、六つの翼を生やし、弓を持った女性を模したステンドグラスを通して、眩い日光が祭壇へと降り注いでいる。
ベルナデッタは母に導かれるままに聖堂の中を進んでいく。聖堂内は人で溢れかえっていたが、やがて母に導かれて辿り着いたカーペットの上は人が少なく、一息つくことができた。緊張で身体を強張らせていたベルナデッタは束の間ほっとする。どうやら司祭の家系には来賓用の場所が用意されているらしい。
来賓用の場所に他の司祭の家系がやって来たら挨拶をして。社交辞令を交わし合って。ベルナデッタにとってはいつにない緊張の時間が続く。大人たちが溢れた聖堂の中、ベルナデッタは母の手を握りながら、じっと儀式の開始を待った。
そうしてしばらく待つうちに、開始の時間を迎えたのだろう。母は手を合わせて祭壇へ向けて祈りを捧げ始めた。他の司祭たちも、聖堂にやってきた多くの人々も頭を垂れて、祭壇に向けて祈りを捧げている。
祭壇に向けて捧げられる祈りによって、聖堂には厳かで神秘的な空気が満ちる。これからとうとう、神聖な儀式が始まるのだ。ベルナデッタも母を見よう見まねで跪き、手を合わせて指を組んだ。
静謐な聖堂の中に、カツカツと踵の音が響く。ベルナデッタがこっそりと顔を上げると、祭壇に一人の男性が立っていた。青白い肌に彫りの深い顔。目はつり上がっていて、深い藍色をしている。薄ら笑いを浮かべていて、それがベルナデッタにとっては少し不気味に感じられた。
祭壇上に現れたのは司教であった。聖バルドヴィーノ。アルビオラで長く司教を務める、この国の実質の首位であった。
ベルナデッタは彼のことを数回程度しか見たことが無かったが、彼がこの国で一番偉い人だとなんとなく理解していた。
彼は祭壇上から、高らかに挨拶する。
「皆様、今日という喜ばしい日に、お集りいただき誠にありがとうございます。皆様の敬虔な姿勢に、ユシリス様も大層喜んでおられます」
ユシリスは聖地アルビオラを守護しており、この聖堂に実際に住んでいるのだという。ベルナデッタはまだその姿を見たことが無かったが、ベルナデッタが読む絵本の中にもたびたび出てくるし、その名を両親や使用人たちから何度も聞かされている。
「今回の儀式において、映えある神子に選ばれたのは彼女です。アンナ」
バルドヴィーノに呼ばれ、一人の女性が祭壇へと上がっていく。長く伸びたブラウンの髪を緩く巻いた少女は、刺繍でもって繊細な装飾が為された服をまとい、身体の至る所を宝石で着飾っている。人の目を思わず引くような、大勢の人々の前で祭壇に立つに相応しい様相だった。
今日十八歳を迎えたばかりのうら若い少女、アンナ・ロンバルディ。彼女も司祭の家系、ロンバルディ家の娘である。
神に選ばれて祭壇に上った彼女の姿はとても可愛くて、神秘的で、いいなぁとベルナデッタは子ども心に思った。
これから何が始まるのだろう。人々が頭を垂れ、祈りを捧げ続ける中、幼いベルナデッタは顔を上げてアンナを見つめ続ける。
「これより儀式を開始する!」
バルドヴィーノが高らかに宣言する。