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野ばら

作者: 大石




 森の中に瀟洒な洋館がある。二階建てらしいそれは良く手入れされているのか、外壁のタイルはひび割れもなく、白いバルコニーが眩しい。薔薇の植え込みが自然な形で並び、その間を歩かせるように飛び石が配置されている。飛び石の終わり、黒い格子状の門扉の前に、大学生の入鹿は緊張した面持ちで立っている。

 たった今呼び鈴を鳴らしたところだ。

 

 大学院の担当教授からの誘いで訪れることとなったこのお屋敷は、教授の師に当たる研究者三日月透みかづきとおるの住まい兼ラボであった。三日月は機械工学の第一人者で、特にアンドロイド(人型で、言語コミュニケーション機能を備えたもの)の開発に力を注ぎ、晩年は特に動作や外殻パーツの開発から離れ思考力や感情表現といった内的な機能の向上に尽力した。本人は数年前に病死して、今は彼の孫娘の野ばらがすべての管理を行なっている。

 

 カランコロンというレトロな鐘の音の残響が全く消えてしまうと、入鹿は落ち着きなく視線を彷徨わせた。元来人見知りな方であったし、他人の自宅を訪問するのも、まして滞在するというのも全く得意なことではない。

 (大丈夫、昨日きちんと電話で挨拶したし、滞在の許可はもらっている。シャワーは浴びてきたし、手土産もちゃんとある)洗いざらしのジーパンに少し生地の厚いTシャツ。一番綺麗なスニーカを履いてきた。人として礼儀を失したところはない筈だ。

 手のひらに滲む汗をTシャツの裾でぬぐっていると、常時浮遊している警備用の球体ドローンから「どうぞ」と涼やかな声が響いた。

 

 「あの、改めまして、高良入鹿と言います。二週間お世話になります」

 案内された二階の客室に荷物を置いた後、手土産の入った紙袋を持ってダイニングに下りると、家主の少女はソファで膝を抱えてぼんやりとテレビを眺めているところだった。入鹿が畏まった調子で声をかけると、慌てて立ち上がった。 背の高い入鹿に向かって小さな頭を下げる。

 「いえ、こちらこそ!」

 妙に声が大きくなってしまっているところに、少女の緊張か警戒心かを感じて、入鹿は反対に少しだけ余裕を取り戻した。肩から落ちるまっすぐな髪を何度もかけ直している。野ばらに紙袋を手渡すと、あっと声を上げた。

 「紫泉堂のフルーツゼリーだ」

 世界的な天才学者秘蔵の孫娘とは、案外、普通の子のようだ。

 「だいだい教授に野ばらさんの好物だと聞いたので」

 「そうなんです! おじいちゃんが大学の方に顔を出すときは、いつも帰りに買ってきてくれてたんですよ。苺みるくが一番美味しくて、あ、三つも入ってる」

 「それも、教授のアドバイスで」

 「へぇ、橙先生さすが」

 人の助言にまるきり従った結果であろうと兎に角、喜んでもらえて良かったと入鹿は胸をなで下ろした。

 さすがというのはどういう意味だろうかと、一瞬考えないでもなかったが。

 

 大学の長い夏休みというのは院生になってもそう変わらず、それなりに勤勉に、それなりに怠惰に過ごしていると、ある日教授から携帯にメッセージが入った。

 曰く「三日月博士のラボの整理を手伝ってもらえないか」と。天才学者の貴重な研究資料を生で拝める、入鹿にとってそれは願ってもない機会であり、もちろん二つ返事で承諾した。

 ところが予定日の前日になって橙から、ごめんねと泣く熊のキャラクターと共に再度メッセージが届いた。

 『明日なんだけど、学会が長引きそうなのでそっちには遅れていきます。イルカくん一人で先に進めておいてください。野ばらちゃんには連絡済みです』

 『分かりました、どれくらい遅れそうですか?』

 『二、三日から一週間』

 

 「教授っ、泊まりなんですよ、俺一人では無理でしょ! 学会って、今どこにいらっしゃるんですか!?」

 メッセージのやりとりから慌てて通話に切り替える。まくし立てるが、橙はのんびりと「やあ、イルカくん」などと挨拶をしている。

 「ドイツ」

 「なんでこのタイミングでそんな遠いところに! 十代の女の子が一人で暮らしてるところに知らん男が泊まれないでしょ!」

 「あ、無理ってそっちの話? 作業のことじゃないの。まあ君なあに考えてるの」

 にやにや笑っている顔が眼に浮かぶ。ただ、彼が自分をおちょくるのにいちいち腹を立てても、無駄かつ話が進まないというのを入鹿はとっくに学習している。

 「一人暮らしって言っても、客間がいくつもあるようなでっかいお屋敷だし、お手伝いさんも毎日出入りしてるんだよ? NZ型のオリジナルアンドロイドもいるし、君が狼になる隙なんてないと思うよー」

 「野ばらさんは了承しているんですか」

 「してるよ、当然。まったく警戒されないのも悲しいねー。イルカくんさ、女の子がどうとか言ってるけど、ほんとは人見知り発動して気まずいから嫌なだけでしょ」

 

 

 「相手が了承してるならいいんですけど」

 「先生はお見通しですよ。いい加減大人になりなね」

 「ほんと、うざい、先生」

 ぶちっと一方的に通話を切る。端末を床に叩きつけたい衝動をどうにか堪えられただけ、十分自分は大人だと思う。

 

 野ばらと挨拶を交わした後、さっそく博士のラボを案内してもらった。

 二十畳はありそうな部屋の壁面は全て本棚になっており、今では貴重になってしまった紙書籍でぎっしりと埋められている。その他にも大量の電子データ類とダンボール箱、アンドロイドの機能を調整するための専用機器やディスプレイが雑然と部屋を占めている。

 「……三日月博士は片付けが苦手だったの?」

 「そうなんです。すみません、これでも掃除はしたんですよ」

 「まあ、やりがいがあるってもんですよ」

 三日月は遺書で、ラボにあるもの全ての譲渡先を橙に指名していた。研究を引き継いで欲しいとの言葉と共に。

 しかし遺書の内容が公開されると、博士が一時期在籍していたデルタプラント社が研究資料の独占を主張してきた。二年をかけた裁判の末、独占の要求は却下されたが、研究資料のうちにデルタ社の商品に関わる企業秘密も含まれている可能性から、遺書の通り橙が全て引き継いだうえで、橙自身ががデルタ社の特任研究員として所属することで決着がついた。

 橙はこの結果に不服そうではあったが、「あんまり反抗しても危ないか」と物騒なんだか呑気なんだか分からない感想をこぼしていた。

 

 「まず俺だけで出来そうなのは貴重なものではないもの、の選別かな。機械類はデータだけ残して外側は処分します。空のダンボールってありますか? あとあれば台車を借りたいんだけど」

 まずは、ぱっと見で選別が可能な紙書籍類から手をつけることにする。こちらは研究資料というより趣味のコレクションらしい物が多く、殆ど処分することになりそうだ。

 「隣の部屋を空けておいたので使ってください。段ボールと台車とかも置いてあります。手伝いは必要ですか?」

 「いや、大丈夫です。俺、橙教授からバイト代出てるので、手伝って貰ったら叱られます」

 「じゃあ私はダイニングで勉強してます。何かあれば声をかけてください」

 「勉強? 偉いね。夏休みの宿題?」

 「いえ、大学受けようと思って」

 「ああ、そっか!そんな時期にごめんね、落ち着かないでしょ。こっちは気にしなく良いので勉強最優先でお願いします」

 

 「ふふ、分かりました」

 一人になると、イルカは持参したエプロン替わりの白衣を羽織った。掃除したとは言っていたが、これだけの紙書籍を移動させるとなると、あっというまに服がダメになりそうだ。

 「さて、やりますか」

 一人の作業は嫌いではない。音楽もかけずただ黙々、手を動かしていく。タイトルを確認しながらもそれほど時間をかけず、片端から段ボールに詰めていく。どこか教育機関にでも寄贈したら喜ばれそうだが、デルタ社はいい顔をしないだろう。こっそりと自分が欲しいものを別に選り分けておいたので、橙が到着したら交渉するつもりだ。

 夏の長い日暮れもすっかり夜に変わった頃、野ばらが声をかけに来た。

 そろそろ夕食にしてはどうか、という提案だった。彼女は先に済ませてしまったことを謝ったが、入鹿には気楽でありがたかった。

 昼と夜の食事は通いのお手伝いさんが毎日作ってくれていて、朝だけはパンや冷凍食品を自分で用意して食べるのだという。

 「といってもそれもお手伝いさんが補充してくれているんですが」

 どこかバツが悪そうに野ばらが説明する。

 入鹿が食事を摂る横で野ばらはコーヒーだけ入れて、それを持って自室へと向かっていった。

 そうして一日目はあっという間に過ぎ、本棚の三分の一が空になった。明日は朝から作業すれば、書籍類は片付くだろう。

 客間へ戻った後、適当なデータを眺めるつもりでラボの携帯端末を持ち出したが、ほとんど頭に入って来ないまま眠りについた。

 

 四日、五日目になると野ばらとも大分打ち解けてきて、入鹿が休憩中に勉強の分からないところを聞いて来たりするようになった。本来ならば年上の自分から彼女の警戒心を解ければよかったが、不自然な振る舞いをしないようにするのが精いっぱいだった。入鹿は研究馬鹿で人付き合いは苦手だし、飛び級で院へ進んだので、普段周囲にいるのは年上ばかりだ。いつもゼミの仲間が自分にどう接しているか考えたが、彼女に応用できそうなものはなかった。野ばらは無遠慮に人との距離を縮めたがるタイプではないようだが、人見知りはしない方らしい。

 橙からは音沙汰がなく、一週間が経ったころ作業の進捗報告とともにいつ戻れるのかと尋ねたが、はっきりとした返事は貰えなかった。

 そのことを朝食の席で野ばらに伝えると「橙先生、自由だなあ」と苦笑していた。

 

 「そういえばNZ型が一体いるって聞いていたんだけど見ないね」

 「……メンテナンスに出してるんです。この前、私が……」

 私が、の後に続く言葉を入鹿が悠長に待っていると、野ばらの瞳がみるみる涙の膜で覆われていった。いっそ見事なくらい綺麗な泣き顔だったので、一瞬見とれたが、我に返ると猛烈に焦った。

 「ど、どど、どうした?!」

 ぽたぽたとテーブルに落ちる水滴に為す術もなく、奇跡的に橙教授が現れないかと周囲を見渡すがもちろん誰もいない。がたがたと忙しなく椅子を引き、野ばらの隣に腰かける。かなり迷った末、すんすんと鼻を啜る野ばらの背中を手のひらで撫でた。

 

 「大丈夫だよ、何があったか話してくれる?」

 喧嘩をしたんです。

 野ばらが切り出したところで、入鹿は大体のことを察したが静かに相槌を打つに留めた。

 「じ、自分より完璧な存在がいるっていうのが、急に、腹が立って。階段の上から突き飛ばしたんです」

 「……そっか」

 アンドロイドは汎用性のある「機械」である。コミュニケーション能力が発達したとはいえ、一貫して善良で達観した性格を持たされている(傍点)。普通、人に暴力を振ることはおろか口げんかすらすることはない。

 「すごい音がして、う、動かなくなって。怖くなって、おじいちゃんのデルタ時代の同僚に電話したら、すぐ来てくれたんですけど、ここではどうにもならないから一回会社で引き取るって」

 「橙先生には相談しなかったの」

 「先生はシイナちゃんのことすごく可愛がってたから」

 言えなかった、と声を震わせる野ばらの背中を、入鹿は黙って撫で続けた。

 

 

 ラボの片づけも佳境に入り、入鹿はデータ化された文書の選別をしているところだ。発表済みのものとそうでないものを分けて、端末内で分かる限り時系列順に並べなおす。

 未発表の論文を本腰をいれて読んでみたかったが、橙の到着がいつになるか分からない以上時間のロスはできない。タイトルの無いカード(電子記録媒体のこと)が大量にあって、それらすべてに目を通さなければいけないのだから。

 NZのオリジナルにお目にかかれなかったのは残念だが、それより野ばらの落ち込み様が可愛そうで仕方なかった。誰にも言えず堪えていたものが噴出したのだろう。「一番の友達なのにひどいことをしてしまった」と泣きやまなかった。

 機械だからすぐ治るよ、と言おうとして、それもデリカシーが無さすぎだろうと気づき口を閉じた。「シイナ」が早く帰ってきて、野ばらの憂いを消し去ってくれるといい。

 

 「完璧な存在、ね」

 

 入鹿自身はアンドロイドを完璧な存在だと思ったことはない。どんなに人間に近づいたといっても、アンドロイドは正しすぎるのだ。

 

 その日は野ばらの赤い瞳を見るのが気まずくてほとんどラボに籠ったが、思うほど作業は進まなかった。

 

 翌日も朝からデータの再生を続けていると、二、三歳らしき野ばらの映像記録が見つかった。三日月のコメントが挟まれることもなく、一人、音の鳴るおもちゃを振り回す幼児の微笑ましい姿がひたすら続く。高速で早送りをしても場面は変わり映えなく、時折シッターと思われる人物が出入りするのみだ。カードの山を崩していくと、少しずつ映像の中の野ばらが成長していく。

 これは、さすがに研究資料とは言えないだろう。ホームビデオの一種だとしたら、野ばらに託すべきだ。入鹿は映像を止めて野ばらを呼びに行くことにする。

 

 

 「アンドロイドの思考パターンの基本って、人間のそれをトレースしたところから始まったでしょう? 多分、大学の一般教養とかでもやると思うんですけど。おじいちゃんは特に人間らしさに固執していたから、生きた人間のデータを取りまくって取りまくって、それをそっくり機械の脳として搭載したの」

 自室にいる野ばらを尋ねると、昨日の泣きはらした名残はあるものの、声は落ち着いている。

 「そのデータでしょう。私もちゃんと見たことないんですよね、一緒に確認しましょう」

 ラボに着くと、野ばらは慣れた手つきでカードを次々に再生させていく。幼児だったのが少女となり、少しずつ大人に近づいていく。映像の記録時間は尋常ではない。

 「これって、うわ、わわ!」

 入鹿が慌てて映像を切る。画面の中の野ばらは十代半ばになっているにも拘らず、なんの気なしに部屋着を脱ぎ始めたのだ。

 「お察しの通り、盗撮です。おじいちゃんはこうやって私の記録からNZオリジナルを作ったんです。シイナは私そっくりなんですよ」

 野ばらがほんのりと口端を上げながら話す。その複雑な笑みにどういった感情が込められているのか入鹿には分からなかった。

 

 三日月には一人娘がいたが、彼の若い頃はアンドロイド開発の創成期であり、彼自身がその道のトップを走っていたため、娘に顔を忘れられるような暮らしを何年も続けていた。人型のプロトタイプを無事世に送り出した頃には、家庭を顧みない父と娘との確執は取り返しようの無いところまで来ていた。

 妻は研究者である三日月を理解し支え続けたが、ある日病に倒れるとあっという間に彼岸の人となってしまった。既に自身も母親となっていた娘は葬式の席で三日月を責め、益々親子の溝を深めた。そして、その葬式の帰り道、夫とともに事故で亡くなってしまった。

 

 三日月はほとんど同時に妻と娘と義息子を失ったのだった。

 

 三日月は交通事故を無くす発明をすべきだったと、研究者仲間の間で囁かれた。誰も、冗談で言ってはいなかった。

 「さて、そうして家族を失うことを極端に恐れた天才が次にのめり込んだのは、孫娘のスペアを作ることだったのです」

 「スペアって、そんな言い方」

 「これ見て」

 野ばらが画面を操作して映像を再生する。そこには野ばらと、彼女にそっくりな少女がテレビを見ながら談笑している。なんてことのない会話が延々続く、あのドラマは面白いだとかつまらないだとか、新しいアンドロイドのアイドルグループが好きだとか曲がいいとか。

 「すごい」

 唖然として入鹿がつぶやく。最早、どちらが野ばらでどちらがアンドロイドなのか見分けがつかない。

 ちょっとした仕草や言葉遣いまで。双子だと言われたら疑わないだろう。

 「普及しているアンドロイドの充電方法がなぜ全て有線なのか、考えたことありますか?」

 「それは、大量の電力供給を短時間で行うには。いや、今の技術力ならそれくらい非接触でも……」

 「お察しの通り」

 アンドロイドの進化はそこまで来てしまった。人間と区別するためだけに敢えてここに穴を作った。

 芝居がかった仕草で長い髪を片側に避け、野ばらは自分のうなじを指で撫でる。

 「語彙力、感情の起伏、生体リズム。あらゆるものを野ばらは盗まれたんです」

 「え……?」

 「初めは嬉しかったんですよ。仲の良い姉妹のように、もしくは親友の様に接することができました。ずっと孤独だったから、最高の理解者を得たと思いました。でも、そのうち疎ましくなった。自分そっくりの顔が、自分の意図しないところで笑うのが。鏡じゃないんだから当然なんですけど。自分より先に、おじいちゃんにおはようとあいさつをして、テレビをつけてソファに座っている」

 「野ばらさん?」

 「野ばらが学校に行っている間はすることがない。なんだか、自分が二人いるって、自分の価値が、役割が、半分盗られたように感じるんです」

 「君は」

 「高良さん、デルタの社員が運んで行ったのはどちらでしょう」

 「野ばらさん、やめてくれ、作り話でしょう。さすがに君をアンドロイドだとは思えない」

 「アンドロイドには心臓が無い」

 「だ、だから何?」

 野ばらが、袖を捲った右腕を差し出す。無造作に入鹿の手を掴んで、自分の手首に巻かせた。入鹿の顔色が血の気を失っていく。野ばらの肌に必死で親指を擦らせているが、拍動を探せない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 「んふふふ、高良さん、呑まれやすいなあ。あ、橙先生だ」

 「やっほー野ばらちゃん、通りでメンテ帰りのシイナちゃんにばったり会ったから、今二人でそっちに向かってるよ。イルカくんとは仲良くやってる?」

 森の中に作られた小道を、橙がスーツケースを引きながら歩いている。隣には野ばらとそっくりなアンドロイドのシイナが、彼らの少し前には先導するように球体が浮遊しており、橙はその球体に向かって喋っている。

 「先生、こんにちは。シイナちゃんお帰りー! それが、あのぅ、やりすぎてしまいまして。今さっき飛び出して行っちゃいました」

 球体は野ばらの音声に合わせて弾んでいる。

 「もしかしてあの脚本ほんとにやったの? ウケるわー野ばらちゃん本気出しすぎ。あー来た来た、すごい形相でこっち向かってくるよ、後でちゃんと謝りな」

 「はい、高良さんちょろす……いい人すぎて、さすがの私も無い良心が痛みました」

 「幽霊見たみたいな顔してるよ、え? なんか脈が無かったって言ってるけど、なんの話?」

 「ああ、アンドロイドには心臓がないでしょって、手首握って貰いました。昔橙先生とやった死体ごっこのやつで」

 「あっはは! それくらいで騙されたの、イルカくん!」

 とりあえずこの子は引きずっていくよ、と言って橙が球体に手を振ると、映像は一端切れた。

 

 「イルカ君、二十歳過ぎた男がむくれてても可愛くないから、ほら憧れのNZオリジナルだよ」

 「シイナです。はじめまして」

 「……どうも」

 シイナは家に着くや、橙のスーツケースを運び、野ばらが出しっぱなしにしていた雑貨を片し、三人分のコーヒーを淹れる。そうしてやっと野ばらの隣に落ち着くと、にこにこしながら入鹿にお辞儀をした。

 野ばらも機嫌よさそうに、洋ナシのゼリーを食べている。思い返して見れば、この一週間で彼女が何か食べ物を口にするのを初めて見た。……そこまで徹底して自分を騙すつもりだったのかと思うと怒りよりもいっそ感心してしまう。

 入鹿がコーヒーを啜っていると野ばらと目が合い、彼女がはっとしてスプーンをテーブルに置いた。

 「高良さん、ごめんなさい。実験的なお芝居をしました」

 シイナがメンテナンスに出ていたのは本当だが、二年に一度の定期検査で本当に偶々不在にしていただけだと言う。野ばらの手首に脈拍が無かったことについては、脇にピンポン玉を挟むことで一時的に血流を止めることが出来ると、これは橙が説明した。

 「……俺も早計だった。確かめようと思えば他にも色々あったよね、通電させてみればよかったんだ」

 棘のある言い方をしてみれば、野ばらよりもシイナが申し訳なさそうにしている。

 「それじゃあ野ばらちゃんが感電してしまいます」

 「冗談だよ。じゃああの膨大な量の野ばらさんの映像記録も仕込み? 実はほとんど同じ映像をループさせてるだけとか」

 「いえ、あれは本当におじいちゃんの研究資料ですよ。シイナもこの通り、そっくりじゃないですか」

 野ばらはどこかつまらなそうに肩を竦めて見せる。彼女が語った「半分盗まれた」という気持ちは、あながち演技で言ったのではないかもしれない。

 「映像記録って?」

 橙が問うと、野ばらがラボにあるものを取ってくるという。リビングの大きいテレビで見ましょうと、シイナを連れて席を立った。何年も隠し撮りされていたことは、さほど気にしていないのか。この夏の短い付き合いでは野ばらの性格は到底分かりようもなさそうだ。

 

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