はじめてのホームシック
「いやぁ、ごめんごめん」
軽いノリの声が聞こえる。
「……っ!」
気がついたときには目の前にいたその声の主は、真っ白な翼でぱたぱたと羽ばたく、真っ白なウサギだった。不自然なほどに目が真っ赤なことと翼以外はごくごく普通のウサギ。それが、何もない真っ黒な空間にぽっかりと浮かんでいる。
異様な光景だった。これがクトゥルフであればSAN値チェック不可避だ。
「ぅえ……?あ、あなたは一体、というか私は一体」
確か、そうだ。煩悩にまみれた行動でわけのわからないことになって、どうにか抜け出そうと柱に頭を思いっきりぶつけた。ぶつけたところを押さえようとして、そういえば実体がないことに気がつく。と、いうことは私は無事あの体の外に出られたのだろうか?
困惑する私に、目の前のウサギが口を開く。
「色々あって、混乱してると思うけど。まずは謝罪を。ごめん、完全にボクのミスだ」
そう言って、深々と頭を下げる。
「ちょ……」
羽の生えたウサギに真っ暗な空間で頭を下げられるとか、斬新すぎる。ますます混乱してあわあわとしていると、ウサギは顔を上げてこんなことを言った。
「自分のミスについてあれこれ語りたくないから手短に結論から言うけど……キミには、これからあの世界___そう、君たちが言うところの『テイルオブソード』……『テード』の世界で暮らしてもらうことになる」
ナンデスト?ナンテ?
「完全な手違いだ。ボクは千と七年ぶりに、呼ぶ魂を間違えた」
「えっ?いやいやいやそうではないよ?そうではないよねウサギさん?何?なんですって?」
「理解できなくて当然だ。これだけの説明じゃね。ただ、ボクは今とても忙しい。この忙しさが収まるまで何年かかるかわからないし、何ならもう一分一秒が惜しい。謝罪もしたからボクは行く。後は頑張って、なんとかしてくれ。記憶は残して起きつつ基礎知識は入れておくから」
「いやいやいやいや!?!?待ちやがりくださいウサギさんや!?何を言っているの一体!?」
「だから、理解できなくて当然だ。今説明している時間はない。キミの部屋のベッドの横に説明を書いた手紙があるからそれを読んでくれ。あと、もう二度と無理矢理あの体から出ようとするな。今回はこちらに否があるから特別に助けたが、次はない。魂だけになろうと下瞬間、お前は転生するどころか跡形もなく消失する。ボクは忠告したからな」
早口でそう言うと、ウサギはどこからか取りだした懐中時計を見て「もう行かないと」と焦ったように言うと、はじかれたように飛び出した。
「あっ!?こら待て!このウサギっ!このっ!」
バサバサと羽ばたくウサギに手を伸ばそうと……するけどよく考えると手がないし、あと信じられんほどウサギのスピードが速い。
「謝罪ついでに一つだけ。鍵は題名だよ。……ああ忙しい忙しい。見つけなきゃ、探さなきゃ。正しいアリス、正しい乙女……」
ゆらゆらとウサギが揺れる。やがて、真っ白は闇に溶けるように消えた。世界は完全に黒くなる。
「ほんとにいなくなるのか!バカウサギ!会ったばかりだけど嫌いだわ!!戻ってこい!……何だってんのよ、ちくしょーーーーーー!!!」
吠えるのと同時に、真っ黒な世界はぐるんと反転し。
気がつくと、私は見覚えがありすぎるベッドの上に寝ていた。
** *
「リーゼロッテ!!」
うっすらと目を開く。どこかすがるような必死な声が耳に飛び込んで来て、声の方向、ベッドサイドに首を向ける。
「!!リーゼロッテ!目が覚めたのね!」
目に入ったのは、緑の瞳を潤ませながら安堵の表情を浮かべる一人の美しい女性だった。優雅に結い上げた亜麻色の髪に高価そうな青緑色のドレス。手はお祈りのポーズに握られていて、顔には安堵と同時に心からの喜びがうかがえる。……の、だけど……
……けど、えーと、どちら様?私の知り合いにこんな綺麗な人はいらっしゃらなくてよ……?
一体この美人さんは誰だ?と、いうか、私は一体どうなったんだ?
困惑のままにおでこに手を当てようとすると、美人さんが「あっ、触っちゃダメよ!」と慌てた様子でそれを遮る。
「額が割れていて、三針縫ったのよ。お医者様の話だと、傷跡は残らないはずだけれど、大事をとって3日はこのまま安静にしていなくてはいけないそうよ」
その言葉に慌てて手を引っ込める。な、なんてこった。3針だって?これはあれだ、私、戻ってきたんだ。だってぶつけたもん。柱に。思いっきり。間違いなくその時のケガだよ。
「……ねぇ、リーゼロッテ。聞いてもいいかしら。どうしてあんなことをしたの?」
ちくしょー一体何だってんだ!さっきの夢か!?夢だとしても許さねえぞあのウサギ・オルタ!今度あったらウサギ鍋にして食ってやる!!毛皮は手袋にしてやる!!羽は剥製屋に売りつけたるーーーー!!!と、心の中で暴言を吐きま食っていた私に、遠慮がちな声がかけられた。あっ、そういえば美人さんがいたんだった。けど、私はこの美人さんが一体誰なのかわからない。声をかけようにもなんと呼べばいいのかわからないし、理由にしたって『いやー魂になりたくて!!』なんて言ったらドン引きさせてしまうに違いない。
ま、まずいぞ!これは一体どうしたらいいんだ!?というパニックに陥り、「あ、あのですね、えーと、これには海より深い訳が……」と、お茶を濁そうと口を開きかける。すると、「いえ」という小さな声が静かな部屋に響いた。
「大丈夫よ。言いたくないことは言わなくても。……出しゃばってごめんなさい。どうか、大事にしてね」
……へ?
「あっ、ちょ」
「後のことはアリシラに頼んでいるから。……勝手に入ってごめんなさい」
そう言うと、止めるまもなく美人さんはドアから出ていってしまった。
「……?あの人一体誰……?アリシラ?誰……?」
バタン、とドアが閉まり、一人残された私は、困惑したまま呟くしかなかった。
** *
アリシラというのは(当たりまえっちゃ当たり前だけど)人間だった。クラシカルなメイド服を着た齢40後半のご婦人で、気さくで明るい雰囲気の、例えるならまさに面倒見の良いおかん、という印象の持ち主だった。
「リーゼロッテお嬢様!一体どうしてあのようなおかしな行動をなされたのです?メリルが腰を抜かしていましたよ、お嬢様がご乱心だ!って」
口は動きながらも彼女の手は止まらない。私が口を挟む間もなく、あっという間に私の目の前には美味しそうな食事が並んでいた。
「さぁさ、何はともあれまずお食事をいたしましょう。お医者様に言われたとおり、栄養満点の温かいスープをご用意させていただきました。料理長が腕によりをかけて作ったんですのよ。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
そういえば、なんだかお腹が空いている。最期に口にしたものは何だっただろうか。講義に遅刻しそうで時間がなくて、朝食は食べずに登校して死んだから、そうだ、前の日の夜に食べた親子丼だ。めんつゆの分量を間違えて、しょっぱすぎた親子丼。いつかリベンジしてやる!と家族LINEに送ったのを思い出す。人間、食べたいときに食べたいものを食べた方がいい。大切な人に、ちゃんと感謝を伝えておいた方がいい。
久方ぶりの空腹には抗えず、スプーンを手に取りスープを一口飲む。それはジャガイモの香りが広がるポタージュスープで、上に乗った削ったチーズがいいアクセントになっていた。
温かくて優しい味に、意図せずに涙がこぼれ落ちていた。家族が、ひどく懐かしかった。
ぽろぽろと泣き出した私になにかを察したのであろうアリシラさんは、安心感を誘う大きな手で私の頭を撫で、「今日はゆっくりお休みください」と言って、すっかり完食して空になったスープ皿を一礼と共に下げ、部屋から出ていった。
「お母さん、お父さん、弟…………っ」
完全にホームシックだった。
その夜、私は死んでからはじめて声をあげて号泣した。