【9ー3】だから貴女は永遠のライバル
多忙なシリルは他にも仕事があるらしく、すぐにその場を離れていった。
普段のシリルはフェリクスに同行していることが多いし、当初の予定でもそうなっていたはずなのだが、予定外のことでもあったのだろうか。
モニカはシリルを手伝えないことを少し申し訳なく思いつつ、フェリクスの方に意識を向ける。フェリクスは何人かの貴族を伴って、展示の教室を出たところだった。
どうやら、その貴族達を他の展示スペースに案内する流れになったらしい。
『〈沈黙の魔女〉殿。あまり第二王子に近づきすぎませぬよう、お気をつけください』
耳に直接聞こえてきたのはリンの声だ。恐らく歓楽街でやったように、モニカの鼓膜を直接震わせているのだろう。
『歓楽街で学びました。第二王子は、尾行に対する勘が非常に鋭い。幸い移動先は窓のある部屋のようなので、わたくしが木の上から監視します。不審人物が近づいたら、報告しますので、〈沈黙の魔女〉殿は適度に距離を開けていてください』
モニカは尾行の類が得意ではないし、ここはリンに従った方が良いだろう。そうでないと、歓楽街の二の舞になってしまう。
そもそも、チェス大会の事件があった日から学園内の警備は強化されており、あちらこちらに兵が配置されているのだ。モニカが警戒する必要があるのか疑わしいぐらいに、その警備は徹底していた。
(あんまり、殿下に近づきすぎて、わたしが不審者って思われたら元も子もないし……うん、距離を取ろう)
フェリクスが入っていった教室を確認し、モニカはその教室から少し離れたところに移動する。
すると、丁度廊下の角を曲がってこちらに近づいてくるラナの姿が見えた。
ラナはモニカに気づくと、手を振りながらモニカに駆け寄る。そして、モニカの胸元に飾られている白バラの花飾りを見て、なにやら意味深な笑みを浮かべた。
「へー……ふぅーん、そっかぁ」
「…………? どうしたの?」
「うんうん、舞踏会の時はうんと可愛くしてあげるから、楽しみにしてて」
ラナはなにやら楽しそうである。モニカはラナが楽しそうな理由がよく分からないまま曖昧に頷き、気になっていたことを訊ねた。
「ラナ、衣装の最終チェック、終わったの?」
「えぇ、バッチリ。それでね、そろそろお父様の馬車が到着する頃だから、迎えに行こうと思うんだけど、モニカも一緒に行かない? お父様にモニカを紹介したいの」
ラナの父親コレット男爵は、莫大な富を築いた敏腕商人らしい。だが、宮廷に出入りするような人物でもないから、モニカの顔は知らないはずだ。
それなら会っても大丈夫だろうか、とモニカが考えていると、不意にラナが顔を強張らせた。その目は鋭く細められ、眉間にはギュッと皺が寄っている。
どうしたのだろうとラナの視線の先を追いかけたモニカは、あっ、と小さく声をあげた。
ラナの視線の先に佇んでいるのは、かつてモニカの友人だった、ミネルヴァの生徒。バーニー・ジョーンズ。
バーニーはラナとモニカを順に眺め、眼鏡を指先で持ち上げながら口を開いた。
「……あぁ、今日は化粧をしてないんですね? そっちの方が、いかにも貴女らしい」
バーニーの口調は刺々しいのに、どこかぎこちなく感じるのは何故だろう。
ラナがバーニーを睨んだまま、モニカの手を握り締める。
「モニカ、行きましょ」
「あ、えっと、待って……」
気遣ってくれたラナには悪いが、モニカはどうしてもバーニーと話したいことがあった。
何せ、数日前のチェス大会で刺客に襲われて以降、バーニーとは一度も会話をしていないのだ。
「わたし、バーニーに、話さないといけないことが、あって……」
モニカが途切れがちにそう言えば、ラナは心配そうにモニカの顔を覗きこむ。
ラナを不安にさせたくなくて、モニカは唇の端をキュッと持ち上げ、不器用に笑ってみせた。
「わたし、大丈夫、だから」
「……何かされたら、思いっきり悲鳴をあげて『あのダサ眼鏡がスカートの中に顔を突っ込んできたんです!』って言うのよ。暴力は使わず、社会的に抹殺できるわ」
大真面目に物騒なことを言うラナに、バーニーがヒクヒクと頬を引きつらせる。
モニカは苦笑まじりにラナをなだめた。
「大丈夫、だよ……うん、もう大丈夫」
まだ緊張はあるけれど、それでも今のモニカは、バーニーと向き合うことを恐ろしいとは思わなかった。
それはきっと、バーニーのことを吹っ切る勇気を、ラナが分けてくれたからだ。
「ラナは、お父さんを迎えに行ってあげて」
「……分かったわ」
ラナは渋々頷くと、バーニーにべぇっと舌を出して、その場を後にした。
その勇ましい背中を見送りながら、バーニーは鼻の頭に皺を寄せて呟く。
「……随分と頼りになるお友達ですねぇ?」
皮肉たっぷりのバーニーに、モニカはちょっぴり照れ笑いをしながら頷いた。
「うん、自慢の、友達……なの」
嫌味を受け流されたバーニーは、はぁっと露骨な溜息を吐き、肩を竦めた。
「まずは場所を変えましょう。こんな場所で立ち話はゴメンです」
「う、うん、人の少ないところ……案内する、ね」
モニカが歩き出すと、その後ろをバーニーは無言でついてくる。二人の間に会話は無い。
学生時代、ミネルヴァの廊下を歩いていた頃は、二人で横に並んで、他愛もないことや授業のことを話しながら歩いていたけれど……今はこの距離が、合わない目線が、二人の関係なのだ。
そのことにほんの少しの寂しさを覚えはしたけれど、もうモニカの胸が痛むことはなかった。
* * *
モニカがバーニーを案内したのは、以前まで一人で昼食を食べるのに使っていた裏庭だ。
「ここなら、人が、あまり来ない……から」
「いかにも貴女が好きそうな場所ですね。どうせ、ここで一人でご飯を食べていたんでしょう?」
「さ、最初の頃は……」
でも、今は違うのだ。ラナやクローディア、たまにニールやグレンも交えて、一緒に食堂で食事をしている。
モニカはもじもじと指をこねつつ、バーニーをちらっと見て話を切り出した。
「バーニーは、ミネルヴァの先生の付き添いで来たの?」
先ほどのロベルトのように招待された教師の付き添いという形で入場したのかと思いきや、バーニーは首を横に振る。
「いいえ、あんな事件があったばかりなので、今年はミネルヴァの教師は誰も出席していませんよ」
数日前の事件で、ミネルヴァの教師に犠牲者が出ている。今、ミネルヴァはユージン・ピットマンの死で大騒ぎになっているらしい。
確かにこういう状況では、ミネルヴァの教師達が参加を見合わせるのも当然だ。不謹慎ではあるが、モニカは少しだけホッとした。モニカにとって最大の懸念材料が、面識のあるミネルヴァの教師との鉢合わせだったからだ。
「……あれっ? じゃあ、バーニーはどうやって、招待状を……?」
「僕を誰だと思っているんです? アンバード伯爵家の人間なんですよ? 学園側に申請すれば、招待状を貰うぐらい訳ありません」
「そ、そうなんだ……」
モニカはあまり詳しく知らないが、バーニーの実家のアンバード伯爵家はリディル王国でも屈指の名家であるらしい。そのことをバーニーは誇りに思っていて、学生時代も「我がアンバード伯爵家は」と口癖のように言っていたものだ。
そのことを懐かしんでいると、バーニーは心なしか早口で言い募った。
「そうそう、僕に話したいことがあるって言っていましたね? 貴女のことですから、どうせ『なぜあの時、自分の正体をバラさなかったのか?』と言いたいのでしょう?」
「…………うん」
ユージン・ピットマンに成りすました刺客をモニカが撃退した後、バーニーはモニカの正体がバレないようにリンを隠し、刺客を撃退したのは自分だと嘘をついた。
そのおかげでモニカは正体がばれずに済み、今もこうして学園にいられる。
──バーニーがモニカを庇う理由なんて、無いはずなのに。
モニカの疑問に、バーニーはまるで答えを用意していたみたいに、スラスラと流暢に答えた。
「最初は、なぜ貴女がセレンディア学園にいるのだろうと疑問に思っていたんですよ。どうせ、七賢人様のお戯れの学生ゴッコなのだろうと。けれど、この学園に第二王子がいるということと、セレンディア学園に侵入者がいるという事実を踏まえれば、貴女が護衛のために派遣されたと考えるのが妥当でしょう?」
返事を促すようにバーニーがこちらを見てきたので、モニカは唇を噛みしめて小さく頷く。
本来、任務のことは極秘だが、今更バーニーを誤魔化すことはできないだろう。
「貴女が七賢人の仕事でこの学園に来て、第二王子の護衛をしているのなら、それを助けるのはリディル王国の貴族として当然の振る舞いでしょう? 貴女を庇った理由はそれだけですよ、七賢人様」
友人の「モニカ」だから助けたのではなく、貴族の義務として「七賢人」を助けたのだと、バーニーは殊更強く強調する。
そうして、彼は黙り込んでいるモニカの顔を覗き込んで、意地悪く笑った。
「納得しましたか? 七賢人様?」
やっぱりバーニーの中では、モニカは友人などではないのだ。
バーニーはその事実を、執拗に何度も何度もモニカに突きつける。まるで、言い聞かせるみたいに。
きっともう、友人としてのモニカの言葉は、バーニーには届かないのだろう。
それでも、モニカはどうしても一つだけ、彼に聞きたいことがあったのだ。
「…………これは、答えたくなかったら、答えなくていいんだけど」
「おや、なんですか? 七賢人様のご命令なら、アンバード伯爵家の人間として、なんでもお答えいたしますよ?」
嫌味たっぷりに応じるバーニーに、モニカは一度だけ目を閉じ、そして開いた目でバーニーをまっすぐに見つめて問いかけた。
「……バーニーは、どうして、チェス大会に、出たの?」
不意打ちに、バーニーの顔から表情が抜け落ちる。
モニカはバーニーと再会した時から、ずっと不思議で仕方がなかったのだ。
まだミネルヴァにいた頃、バーニーはチェスを「暇人達のお遊び」と馬鹿にしていたから。
魔術師養成機関であるミネルヴァに来た以上、魔術を極めることに時間を費やすべきだと彼は主張していた。
だから、モニカはチェス大会にバーニーが参加している事実に、再会の驚きとは別の意味で驚いたのだ。
モニカの疑問の言葉にバーニーは苦い顔をした。まるで、痛いところを突かれたみたいに。
もしかして自分は酷いことを言ってしまったのだろうか、バーニーを傷つけてしまったのではないかとモニカは不安になる。
「あの、答えたくなかったら、いいの。変なこと訊いて、ごめんなさ……」
「僕、もうすぐミネルヴァを辞めるんですよ」
「………………えっ?」
予想外の言葉に、モニカは唇を半開きにして硬直した。
驚き見上げたバーニーは、苦笑いのような何かを諦めたような……そして、酷く疲れたような笑い方をしている。
「先月、兄が事故死したんです。あぁ、陰謀とか暗殺とか、そういうのじゃありませんよ。乗馬が下手なくせに見栄を張って遠乗りに出て、落馬して首の骨を折ったんです……あの兄に相応しい、くだらない死に方だ」
モニカはバーニーの家庭の事情を詳しくは知らない。
ただ、彼がアンバード伯爵家の次男で、兄が爵位を継ぐのだという話は耳にしたことがあった。
だから爵位を継げないバーニーは、七賢人になって伯爵位相当の魔法伯の地位を得るため、ミネルヴァで猛勉強をしていたのだ。
だが、バーニーの兄が死んだのなら……当然に、跡を継ぐのは次男のバーニーということになる。
「……バーニー、七賢人になるの、諦める、の?」
「えぇ、冬には実家に帰って、次期伯爵になるための勉強に専念するので。だから、チェス大会なんてお遊びにちょっとだけ付き合ってあげたんですよ」
次男として生まれただけで自分は認められないと、怒りと承認欲求を燻らせて。
不満をバネに血の滲むような努力をし、周囲に認められるだけの成績を積み上げて。
それが一瞬で崩れ落ちた時、バーニーは何を思ったのだろう。
幼い頃、欲しくて欲しくて仕方なかった次期伯爵の地位が、こんな形で転がりこんできても、素直に喜べる筈がない。
「正直に言うとね、ホッとしたんですよ。僕は」
「……えっ?」
「これで、七賢人になるという夢を諦められる、って」
言葉を失うモニカに、バーニーは疲労の色の濃い顔で、独り言のように呟いた。
「僕は、本当は……もう、ずっと前から、心のどこかで諦めていたんだ。七賢人になることを」
バーニーの言葉が、モニカにはにわかに信じ難かった。
だって、モニカは誰よりも近くでバーニーの努力を見ていたのだ。バーニーは努力家だった。才能もあった。将来は一流の魔術師になると、誰もが信じて疑わなかった。
「……わたしの、せい?」
掠れた声で問うモニカに、バーニーは卑屈な嘲笑を浮かべた。
彼が嘲笑っているのは愚鈍なモニカか、バーニー自身か……或いは、その両方か。
「そうですよ。貴女のせいです。貴女が無詠唱魔術を披露して、圧倒的な才能の差を見せつけたから……あんなの、思い知らされるに決まってるじゃないですか。届くはずがない、敵うはずがない、って」
ははっ、と乾いた笑いを零し、バーニーは眼鏡の奥の目をクルリと回してモニカを見る。
「それなのに、貴女は無邪気に僕に笑いかけてくるんですよ。褒めてほしいって顔で。ふざけるな、って思いましたね」
どんなに悪意と憎悪を並べ立てても、もうバーニーの口調に覇気は無かった。
だって、彼はもう諦めてしまったのだ。自分の思い描いていた七賢人としての未来を。
「貴女は、僕のことを友人だと言い続けていましたけどね、僕は貴女の友人になりたかったわけじゃない」
モニカは、バーニーに期待されることをもう諦めていた。
それでもバーニーに手を差し伸べられ、一緒に学んだ日々を否定されるのは、やっぱり胸が痛い。
俯くモニカに、バーニーは告げる。
「……僕は、対等なライバルになりたかったんだ」
モニカは瞬きをし、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げてバーニーを見上げた。
バーニーはモニカの間の抜けた顔を見ると、いつもの彼みたいに、嫌味っぽく鼻を鳴らして笑う。
「まぁ、僕は優秀ですから。いずれ、歴代最高のアンバード伯爵として名を馳せてやりますよ。あぁ、伯爵位ということは、貴女と同じ地位ですね? エヴァレット魔法伯?」
「……へ? え? あ、えっと……うん」
バーニーの態度の変わりように、モニカがしどろもどろに頷けば、彼は腕組みをして高慢に笑った。
「いずれ、貴女が頼りたくなる有能な伯爵になってみせますよ。どうぞその時は、みっともなく僕を頼ってください」
まるで捨て台詞みたいにそう言って、バーニーはモニカに背を向ける。もう話すことはないとばかりに。
もうきっと、モニカとバーニーは友達にはなれない。
それでも、全てが失われた訳ではないのだ。壊れてしまった友情の後でも、新しく芽生える関係はきっとある。
遠ざかるバーニーの背中に、モニカは頭を下げた。
「……任務のご協力、心より感謝いたします。アンバード伯爵家の、バーニー・ジョーンズ様」
バーニーは足を止めると、首だけを捻ってモニカを振り返り、小さく笑った。
かつて「バーニー助けて」と泣きつくモニカに向けたような、仕方ないなぁと言いたげな、懐かしい笑い方で。
「そうですよ、貴女なんて、ずーっと僕に感謝してればいいんだ」